by 麻屋 衛 様





帰 路


 祝言の夜、果てた宴を後にした酔客たちが三々五々散って行く。
 田所真兵衛は、その中に探していた背中を見つけ小走りに近付いた。
 後ろから肩を叩く。
「軍八郎」
「おお――田所か」
 振り向き様に破顔した軍八郎は、来ていたのかと云い乍ら歩調を落とし、田所
と肩を並べた。
「お役目の向きで遅くなってしまったが――祝儀ぐらいは、な」
「不精者が義理堅いではないか」
「不精と不義理は違おうぞ、軍八郎」
 真面目な顔で反論した田所に軍八郎はそれもそうかと笑みを見せた。
 酔いが良い具合に廻っているのだろう、軍八郎は随分と機嫌が良い。朝早くか
ら八王子を出てきたのであろうに、その疲れは微塵も感じられない。
 夜とは云え、夏も近い時分のことだ。
 空はまだ残照の名残を引いて仄かに明るい。
 道に沿って流れる川に、用心深い連中が持ち出した提灯の火がちらちらと映っ
ている。
 酔うている所為だろう、軍八郎は常よりも少しばかり声が大きい。
 他愛もないことを話しながら、川端の道を行く。
「良い祝言であったな」
「ああ」
「まさか、あやつがあそこまで立派になるとは思わなかったよ」
 意外だったと軍八郎は同意を求めるように田所の方へ首を曲げた。仰け反った
首の形に田所はすこしどきりとする。
 今日の祝言の主役は、熊沢道場の同輩だった男である。――が、放蕩無頼の気質
が過ぎて幾度も勘当騒ぎを起こし、そのたびに軍八郎たちは仲裁に奔走させられ
たものだ。
 気分の良いことばかりではなかった筈だが、思い出す立場になってみれば、そ
こに苦々しい感情は見出せず、ただ懐かしい。
 歳を取った故の感傷かと、田所は小さく笑った。
「どうした」
「いや何――少々思い出したことがあってな」 
 どんなことかと軍八郎が問う。その表情にまた別のことを思い出して、田所は
思わず口元を手で覆った。
「なんだ?」
「祝言といえば――お主、彼奴と祝言の約束を交わしたことがあったろう」
「真逆。そんな馬鹿なことはせぬよ」
「いいや、した。入門したばかりの、十になるやならずという頃ではあったがな」
「そんなことをしたかな」
 軍八郎は眉を顰めて、何もない夜にぼんやりと目を遣っている。
 思い出そうとしているのだろう。
 田所の方は、とっくに思い出している。
「何しろ、前髪の頃のお前ときたら、それはもう可愛らしかったからなぁ」
 にやにや笑う田所を、軍八郎は軽く睨んだ。
「知らんよ、そんなことは」
「当たり前だ。お主に鏡を見詰めるような趣味があったなら、別の途を選んでい
たことだろうよ」
 ――そう。
 前髪の軍八郎は同い年の少年に向かって云ったものである。
 貴方が自分よりも強ければ、祝言を挙げても良い、と。
 無論、子供の戯れ言以外の何ものでもない。
 漸う竹刀の持ち方を覚えた、子供の台詞である。
 しかし――云われた本人は元より、信じた者も少なくなかった。
 軍八郎の上達が、衆群を抜いて優れて居たのも戯れ言に妙な真実味を与えてし
まった。
 結果、熊沢道場は年長者が気後れするほどの妙な熱気を帯びた子供らが集うこ
ととなる。
 それは彼らが少うしだけ大人になり、世の中の残酷な真実と言う奴を知るまで
続いたのであった。
 そして知った後に――うっかりと世を拗ねてしまった馬鹿も居た訳だ。
「そんなことがあったか――?」
 結局思い出せなかったらしく、軍八郎は首を捻っている。
 知らぬは本人ばかりなりとはいえ、ここまで報われないのも些か気の毒だ。
 田所は苦笑と一緒に、大量の空気を吐き出した。
 さほど大きくもない川には幾つか橋が架かっていて、その橋を通り過ぎるたび
に人通りが少なくなって行く。
 おそらく――酔いの勢いを借りて、深川辺りの悪場所にしけ込もうという輩が多
いからだろう。血の気が多くて結構なことである。川沿いに祝言帰りの客の姿は
もう殆ど無い。
 田所は己らの無粋さを可笑しく思いながら、序でとばかりに聞いてみた。
「昔は兎も角、今は如何なのだ。縁談のひとつも舞い込んではおらんのか」
「お主こそ」
 粋が売りの八丁堀ではないかと軍八郎は揶揄を返す。
 拙者は駄目だと田所は胸を張る。
 胸を張っている場合では無かろうに、と軍八郎は声を上げて笑った。
「お主こそ如何なのだ、軍八郎」
「そうだな――ひとつふたつなら無いこともないがな」
「ほほう。それは目出度いではないか」
 軍八郎はちらりと田所を見た。
「――なんだ、妬いては呉れんのか?」
 笑いと酔いを多分に含んだ目元は、見ようによっては酷く艶な空気を感じさせ
――しかも、微細な棘を隠さない。
 訳も分からず、田所は動揺した。
 酷く楽しそうに、軍八郎が笑う。
「冗談だよ――」
「そ、そうか」
 質の悪い冗談は止せと田所は額の汗を拭い、なんで己が汗を掻かねばならんの
かと思い、憮然とする。
 そっと脇を見ると、軍八郎の足取りは先程より幾分柔らかい。そう云うと、軍
八郎は重たげに首を傾げた。
「酔っぱらいだからな」
「そうか」
 田所は短く答えを返し乍ら、軽くその腕を引く。
「――なんだ?」
「そのように酔うて、水に落ちたら良い笑いものだぞ」
 酔っている自覚はあるのか、軍八郎は引かれるままに足を踏み出し、田所と身
体を入れ替えた。
 蛙が鳴いている。
「――ふふ」
「如何した、急に笑うな」
「笑いたい気分なんだよ」
「訳の分からないことを」
 苦い口調を装った田所も、随分と楽しげではあったのだが。
 

 
〜了〜



06,20 加筆修正
05,06,13

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