Dangerous honey
「今日はここまでやな」
バイクのハンドルを握っていたウルフウッドがため息のように呟いて、スピードを落とした。
その見つめる先の空は、二つ目の太陽も沈んで残光のみに赤く染められている。反対側の空からは、すでに藍色の闇が迫りつつあった。
人家どころか道標一本無い砂漠の真ん中では、夜間移動するのは得策ではない。
月明かり---何しろ五つもある---や星明りを頼りに、星座を目印に進むという策も無いではないが、人はやはり、夜、休息をとりたいと思うものらしい。
それはサイドカーに座った、ヴァッシュも同感だった。何しろもう飲まず食わずで、ずっと走りづめなのだ。
薄闇の中、見つけた岩陰にバイクを止め、手際よく野営の準備を始めたウルフウッドを、ヴァッシュは少し離れて見ていた。
この『旅』の主導権はいつもウルフウッドにある。ヴァッシュはただついて行くだけだ。名を変え、姿を変え静かに暮らしていたヴァッシュを、ナイブスの名を出して『旅』に連れ出したのはウルフウッドだったから。
行き先も目的もはっきり聞かぬまま、ただ漫然と移動していると思えた『旅』。それがここへ来て、はっきりと目的地に近づいているのだと確信できた。
ナイブスの気配に感応してか、チリチリと逆立つような感触を首筋に覚えながら、ウルフウッドは本当に『案内人』だったのだと今更ながら納得して、ヴァッシュは複雑な気分だった。
そのウルフウッドはいつもと変わりなく、淡々と手を動かしていた。バイクに積んであった荷物を降ろすと、簡易コンロで火をおこす。その周囲だけが明るくなり、砂地の上に影が伸びた。
「トンガリ。そないなトコで何しとん?はよ、こっち来」
食事の支度をしながら、怪訝そうに声をかける。
「あ…うん」
ヴァッシュは頷いて、火の傍に腰を下ろした。
「まぁず、腹の虫を宥めてやらんとな」
そう呟きながら、ウルフウッドは携帯用のフライパンで何枚ものパンケーキを手際よく焼いてゆく。
辺りに拡がる香ばしい匂いと、暖かい湯気。
「熱いで。気ぃつけや」
炙ったソーセージとパンケーキの乗った皿をヴァッシュに渡し、ウルフウッドはコーヒーを沸かし始める。その手つきは慣れたものだ。
大陸の都市から都市を渡る巡回牧師であるウルフウ
ッドにとって、野宿など日常茶飯事。野外での自炊も当たり前なのだろう。
一方ヴァッシュは、あまり野宿の経験が無い。移動手段は砂蒸気やバスが主だったし、夜は宿に泊まる。当然食事はダイナーか、そうでなければ誰かに作ってもらっていた。
世話を焼かれているな…と思う。ウルフウッド独りなら、きっともっとスムーズに移動しているだろう。食事の支度だって楽なはずだ。
でも……
自分はそれを喜んでいるのだとヴァッシュは思う。ウルフウッドに世話を焼かれるのが嬉しい。
「トンガリ」
「え?」
「ボーっとしとらんと、食べや。冷たなってまうで」
「そうだね」
にっこりと笑って、ヴァッシュはソーセージをパンケーキで巻くとかぶりついた。
「ん〜美味しいよ、ウルフウッド。もぉ、お腹ペコペコだったから特にね」
「空腹は最高のスパイスやって、言ーからな」
コーヒーをカップに注ぎながらウルフウッドが答える。その口元には、不可思議な笑みが浮かんでいた。
「…ウルフウッド?」
「何や?」
「あ…いや、君も早く食べなよ」
「ああ」
皿を手に、ウルフウッドは目を閉じて口の中で呟く。食前の祈りの言葉だと気付いて、ヴァッシュも慌てて目を閉じた。
ふわりと頬を撫ぜる湯気。コーヒーの香り。焼きたてのパンケーキの温かさ。辺りは人の存在を拒むかのような闇だけれど、ウルフウッドの囁くような祈りの声と、手にした物の温かさが相まって、ヴァッシュにはこの上もなく心地よく感じられた。
幸せっていうのは…と食事を終え、寝る準備をしながらヴァッシュは思う。
実にささやかで、他愛ない。
しかし、これが在るから人間(ひと)は、こんな惑星(ほし)の上でも生きてゆけるのだ。
そして、自分も…
不意に煙草の匂いを意識する。いつもと変わらずウルフウッドが吸っているのだ。
もう当たり前になってしまった煙草の匂い。
たとえその思惑が何であれ、ヴァッシュの日常の一部になってしまった匂い。
できるなら…ヴァッシュは口の中で呟く。
いつまでもこの匂いが
自分の傍に在りますように……と。
<05,10,12>
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