二十三夜待ち
 
 
昼の暑さも、夜半を過ぎる頃にはおさまっていた。
東の空に、まだ月は出ていない。
「今日は二十三夜か
 濡れ縁に座した源博雅は、星ばかりが輝く夜空に目をやり、誰とも無く呟いていた。
「何だ、博雅。願い事でもあるのか?」
 それに応えたのは、この家の主、安倍晴明だった。白い狩衣を涼しげに纏っている。
 ふたりが座している濡れ縁からは、山野をそのまま切り取ってきたような庭が見えた。昼間ならば、白から薄紅、そして紅と、時と共にその色を変える酔芙蓉の八重咲きの花や、深山の木陰に咲いているはずの、蓮華升麻の薄い紫の花などが見られるのだが、今はどれも闇の中に、淡い輪郭を見せるのみであった。
 ふたりはそんな庭を見ながら、ほろほろと酒を呑んでいた。
今宵は何か、いつに無くふたりとも言葉少なで、ただただ無言で、お互い空になった盃に酒を注いでやりながら、もう何本かの瓶子を空にしていた。
「二十三夜の夜半過ぎに月待ちすると、願い事が叶うというのは、本当なのか?晴明」
「さぁて
 ほんのりと、盃に満たされた酒を含んだ唇が紅い。
「願い事の内容にも、よるであろうな」
「そうか
 ほぉと、溜め息を吐くように博雅は呟いた。
「おれは、ふと思ったのだがな。晴明よ」
「ん?」
「人は何故、男と女に分けられているのだろうな」
「何だ、急に?」
 怪訝そうに、しかし笑みを多分に含んだ目を、晴明は博雅に向けた。
「何かあったのか?博雅」
「いや特にどうという事があったわけではない。ただ前々から、ぼんやりと思うていた事なのだ」
 博雅は盃に口をつけると、酒で唇を湿らせた。
「邸に居っても、禁中に居っても、そんな話ばかりだ。宿直の晩などは、皆、女御やどこぞの姫たちの品定めに余念が無い」
「話について行けなんだか」
「ああ」
 不貞腐れたように、博雅は手にした盃の中身を飲み干した。
 晴明は、そんな博雅を楽しそうに見ている。
「確かにおれは、そういう話には疎いさ。しかし、それしか話題が無いのも、それはそれで、どうかと思うのだ。第一、女御たちをそのような目で見ているなど、失礼ではないか」
「ははは。わかったよ、博雅。そう熱くならずに、まぁ飲め」
 今夜何杯目かの酒を、盃に満たしてやる。受ける博雅の顔は、赤くなっていた。
「おまえが案ずる事はないぞ、博雅。女御たちとて、しっかり男共を品定めしているさ。そして、それはな、人が人として残っていくために、必要な事なのだ」
「品定めする事がか?」
「そうだ」
 柱に背を持たせかけ、唇に笑みを含んだまま、晴明は暗い庭に目をやった。
「山鳥の羽根が美しいのは、何故だと思う?博雅。鹿の角が猛々しいのは?あれらは皆、雄だけだぞ」
「うむ」
「あれは、すべて雌の気を惹くためなのだ。数多の中から選ばれて睦み合う。そうして、自分の血を、後の世に残して行くという訳さ」
………
「どうせ血を残すなら、少しでも優れていた方が良い、と思うのは当然の事だ。だからお互い品定めをして選ぶ。組み合わせが違えば、また生まれ来るものも違う。男と女に分けられているのは、そういう事だからさ。少しでも多くの子孫を、後の世に残せるようにとの、人智を超えた思し召しなのさ」
「ならばおれは、その務めを怠っているというのか。晴明」
「そうは言ってない」
 拗ねたように睨んでくる博雅に、晴明は笑みを向ける。
「それは生き物の生業としての話だ。人は、また違うさ」
「どう違うというのだ」
 酔っているのか、博雅は尚も絡んでくる。それに苦笑して晴明は先を続けた。
「生き物は皆、後の世に己の血を残すため、子を成すために睦み合う。しかし人は違う。子を成すためもあるが、ただ肉の喜びのためだけに睦み合う事もする」
 晴明は、溜め息とも笑みともつかぬものを吐いて、博雅を見る。
「そちらに血道を上げる者の方が、多いみたいだがな」
 酒で湿らせた紅い唇に笑みが浮かんだ。
「おれとて、愛しいと思う方が居らぬわけでは
 ぽつり、と博雅が呟いた。
「ほほう。いるのか?」
 晴明が面白そうに聞き返す。
「美しい姫を目にすれば、心が騒ぐし、言葉を交わすうちに、愛しいと思うようにもなる。しかしな、晴明」
「ああ」
「そんな気持ちを持て余して笛を吹いておるとな、いつの間にか、心は静まってしまうのだ。愛しいという、その気持ちだけで、満足してしまうのよ」
 だからそれで終わってしまうそう言う博雅を、晴明は目を細めて見ていた。
「人の場合、後の世に残すのは、子だけとは限らん。もっと別のものの場合もある。優れた思想、教え、歌や管弦結局おぬしは、子を成す事よりも、楽に惹かれているのだろう?」
………
 博雅からの返事は、すぐには無かった。晴明の言葉をゆっくりと咀嚼しているのだろう。
「確かにおれは、楽が好きだが
「なら良いではないか。今はそれで。いつか楽よりも、おぬしを虜にする姫が現れるやもしれぬ。なにも焦る事は無い」
「そうだな」
そう呟きながらも、博雅の表情は冴えない。盃を手に、大きく溜め息をついた。
「どうした?まだ何かあるのか。博雅」
「なあ、晴明
「なんだ?」
「おぬしは自分の中に、獣を感じた事はないか?」
「獣を?」
「うむ、獣だ。酷く気持ちが昂ぶって、誰でも良いから食い殺してしまいそうな、そんな気分になる」
「おいおい」
 晴明は身を預けていた柱から起こして、立てた右膝に頬杖をついた。
「それはな、博雅。男である身の性というものだ」
「さが?」
「ああ。姫を愛しいと思う心は、笛で静まりもしようが、身体の方は、それでは収まりがつかん時があるのさ」
「そうなのか?」
「人とて生き物だ。己の血を残すため、子を成すようにできておるのだ。だから獣になる日もあろうさ。だからそれは、別に気に病む事ではないぞ」
「そうか」
 得心したように肯く博雅に、晴明は笑みを浮かべた。
「しかし博雅、そのような事を言うようでは、そろそろおぬしも、通う姫のひとりも在ったほうがよいな」
「何を言う。今、焦る事は無いと言うたばかりではないか。そう言う、おぬしの方こそどうなのだ?」
「おれは、良いのだ」
「何故おれは駄目で、おまえは良いのだ?」
「おれは陰陽師だからな。自分を律しておるのさ」
 声のない博雅に、晴明は笑みを向ける。
「どんなに心惹かれる相手がいたとしてもな、溺れる事がないように、自分を諫めて居るのだ。心が何かに囚われておっては、隙ができる。そこに付込まれては拙いからな」
 そう言って、ふうわりと笑った。
「晴明」
「ん?」
「それでは、おまえの心を慰めるものは無いのか?それではあまりにも
 喉にこみ上げるものに、博雅は先が続かない。
「晴明
 そんな博雅に、晴明は外では決して見せない優しい笑みを向けた。
「だからおまえと、こうして酒を飲んでおるではないか。博雅と酒を酌み交わしながら、とりとめのない時間を過ごす、おれは、それが一番楽しいのだ」
「本当か?」
「本当だ」
「そうか
 ふと見上げると、いつの間にか東の空に半月が昇っていた。
「おお、二十三夜月だ」
 博雅が嬉しそうに、声を上げる。
「願を懸けるぞ。晴明」
 そう宣言して、博雅は空に懸かる月に盃を掲げる。
「この先もずっと、晴明と共に酒が飲めるように、幾久しくお願い申す」
庭の草花が、昇ったばかりの月に照らされて、ほんのりと色に染まる。それが映ったように、晴明の貌も幽かに紅くなったように見えた。
「おまえはほんとうに好い漢だな」
 そう囁く晴明の瞳が、濡れたように光って見えたのは、気のせいだったのかもしれない。
 
 二十三夜の月は、未だ東の空を少し昇ったところにあった。安倍晴明は柱に背を預けて、その月を眺めていた。
瓶子の中味が無くなってから、もう半刻ほどが経っていた。
共に酒を酌み交わしていた源博雅は、飲み疲れたのか、今は横になって微かな寝息を立てていた。
 たしかに今夜は、いつもより盃を運ぶ間合いが早かったように思う。言葉が少なかった分、酒を飲む量が多かったのだ。
 心に抱えた屈託を酒で流す
「人である以上、そんな日もあろうさ。博雅」
 酒気に火照った博雅の寝顔に目をやって、晴明は呟いた。
「しかし、このままにもしておけんな
 夏の兆しはあるとはいえ、夜はまだ冷える。濡れ縁でこのまま寝込んでしまっては、身体にいいはずも無い。
「博雅。おい、博雅?」
 寝息をたてる博雅の肩に手をかけ、軽くゆすりながら声をかける。
「こんな所で寝ておるな。帰るのなら、車の支度をするが。どうする?」
「ん〜む
 博雅は、意味不明の呟きをして、また寝息を立て始める。
「どうしたものかな
本格的に寝入りそうな博雅の様子に、晴明は溜め息混じりに呟いた。
「仕方ない。式に床の支度をさせるか」
 そう言って、立ち上がろうとした晴明は、狩衣の袖を強く引かれて、また膝をついた。
 見れば、寝入っていると思っていた博雅の手が、しっかりと晴明の狩衣の袂を掴んでいる。
「何だ、起きたのか?」
 怪訝そうな晴明の声には応えず、博雅は横になったまま、覗き込む晴明の顔を見上げる。
そのまま両の手を伸ばし、晴明の顔を、掌で包むようにして触れた。
厚く、大きな漢の手の中に囚われた、白く美しい貌が、その紅い唇に笑みを浮かべる。
「どうした?」
 問う唇の形を追うように、親指だけが、捉えた手はそのままに、ゆっくりとなぞってゆく。
「晴明
 掠れた、搾り出すような声。
「なんだ?」
「おれの中の獣が、おまえを喰らいたい、と言っている」
「そうか
「おれには止められん」
「そうか
「どうしたらいい?」
 苦しげな博雅の声に、晴明の笑みが深くなる。
「良いぞ。おまえになら、喰われてやっても」
 そう囁いて、頬に触れている博雅の右手に、自分の左手を添わせた。
 白く細い、冷たい指が、熱く火照った博雅の指に絡みつく。
「しかし、ここでは駄目だ。奥の対に行こう」
 絡められた指に牽かれるまま、博雅は身を起こして、邸の内へと従った。
 人の気配のない邸の中を、導かれるまま歩を進めれば、そこには、几帳の蔭に褥の用意がしてあった。
「ここで、横になるといい」
 晴明が褥の縁に膝をついて、肩越しに博雅を促す。博雅は装束を解くと、晴明と向かい合う形で褥の上に座した。
 灯明の幽かな明かりの中、晴明の顔を見つめる。
色が白く、笑みを含んだ唇は紅い。
「晴明
名を呼んで、指の背で頬をなぞる。
それを追うように伏せられた睫毛が、頬に影を落とすのを、博雅は夢心地で見ていた。
 
気がつけば、いつもの白い狩衣はすでに無く、鮮やかな花浅葱の単も、前が大きく開いていた。
ほつれて解けた、黒い、ぬばたまの髪は褥の上で広がって、烏帽子などはとうに無く、曝された白い肌に唇を添わせれば、それが波打つようにさざめいた。
あとは己の中の獣に忠実に、博雅は腕の中の華奢な身体を、思うさま貪った。
 
 
 月が南中に懸かり、蔀戸の隙間から夜明けの気配が忍び込む。
 いつの間に眠っていたのか、博雅が目を覚ますと、褥の中に独りだった。
 身を起こしてみても、辺りに人の気配はない。薫衣香の香りだけがある。
「起きたか?」
 声のした方に慌てて顔を向けると、いつものように白い狩衣を、蒲萄の単の上にふうわりと纏った、晴明が立っていた。
「そろそろ帰る支度をした方が良いぞ。博雅」
ぽんぽんと手を叩くと、紫苑色の水干に烏帽子を被った女が、水を満たした角盥を持ってきた。
「直衣はここに有るからな」
 たたんで几帳に掛けられている直衣を示す。
「どうした?」
 ぼんやりとして、返事もしない博雅に、怪訝そうに問う晴明の様子は、いつもとまったく変わりない。
「まだ、寝惚けて居るのか」
そうかもしれん」
 博雅は呻くように応えて、ひざの上に置いた手を握り締めた。
 あれは、夢だったのかと思う。
 いつもは白い狩衣の下に隠されている、思いのほか華奢な身体を、この手に抱いたのは
 その、常に蜜を含んだような紅い唇から零れる吐息さえ、貪り尽くすように唇を合わせたのも。
白い肌のいたるところに、紅く、己の痕を付けたのも。
 総ては酒に酔って、己の妄執を夢に見たのだろうか?
………
 絡めた指の感触が、この手に残っているのに
 博雅は大きな溜め息を吐いた。
「博雅」
 声と共に、関節が白くなるほど強く握り締めていた博雅の手に、晴明の手が重なった。
 細く、冷たい滑らかな指が、博雅の指の間に忍び込み、絡んでくる。
 はっとして顔を上げると、すぐ目の前に、晴明の顔があった。
 唇が、笑みを含んで、いつにも増して、艶やかに紅い。
「おぬしの中の獣は、勇猛だな」
 笑みを浮かべたまま、晴明は囁いた。
「ばか」
 博雅は、顔を真っ赤にして呟いた。
 
 すっかり身支度を終えた博雅は、またひとつ溜め息を吐く。
「何だ?」
「いや」
 博雅は、蔀戸の外から洩れ聞こえる朝の気配を探るように、顔を向ける。
「これが後朝の別れというものなのか」
 感極まったように言う博雅を、晴明はただ笑みを浮かべて見つめていた。
「また来れば、良い」
 ほろりと晴明が呟く。
「良いのか?来ても」
 己の中の獣は、中々に御しがたいのだと博雅は呟いた。
「そんなもの
じきに手懐けてやるさ、と晴明は笑った。
「おれは、おぬしと酒を飲むのが楽しいのだよ。博雅」
「おれもだ。晴明」
「ならば、来い」
「おう」
  
 二十三夜の月が、白く、有明の空に懸かっていた。
 


 『二十三夜待ち』―了―










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