汝ら命 短くて・・・
 
 
 
 天の海に 雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ
 
 
 月の綺麗な夜であった。
 翳りひとつない満天の星を、望月がさらに明るく照らし、地上の物の影をその足元に、くっきりと浮かび上がらせていた。
 その月に誘われるように、源博雅はそぞろに歩きながら笛を吹いていた。
 むせかえるような緑の匂いを川風が運んでくる。
 ……もうすぐ、梅雨が近いのかも知れない……
そんな事を思った。
そうなると、しばらくはこんなに美しい月は見られない。それが寂しいのだと。
月には仙女の住む宮殿が在るという。その話を聞いた時、自分がこの月すらも贈りたいと願ったあの姫も、そこに居られるのかもしれないと、そう博雅は思った。
それ故、月が美しければ美しいほど、博雅は笛を吹きたくなってしまう。
 
何かが目の端を翳めた様な気がして、博雅は笛を止めて頭をめぐらせた。すると橋のたもとに、五歳ばかりの童子の姿が目に入った。両手の甲を目にあてて、泣いているらしい。
「どうしたのだ?何を泣いている?」
博雅の声に、小さな肩が怯えたように竦む。
「親御とはぐれたのか?」
 さらに問う博雅に、童子はしゃくり上げる。
「泣いておっては判らん。おれに出来る事が有るなら、してやるから、申してみよ」
「暗くて、怖い」
 細い、鈴の鳴るような声で童子が答えた。
「暗い?こんなに月が明るいではないか」
「お月さま?」
「おお。泣いておらぬと、手を退けて空を見てみよ。綺麗な望月がかかっておるぞ」
 ほれ。というように月を指す。それにつられる様に顔を上げた童子の目は、閉じられたままだった。
「もしや、そなた目が?」
 こくんと童子が頷く。
「そうであったか
 不用意な事を言った自分の無神経さに、博雅は唇を咬む。
「すまぬ。知らなかった」
 屈み込み、頭を撫ぜながら問いかける。
「おれに出来る事はあるか?」
「お月さま。見たい」
「それはそうだが」
 紅葉のような小さな手が、博雅の顔に触る。
「だから、目を頂戴」
「なに…?」
 その刹那、博雅はその童子に影が無い事に気が付いた。
 それが、博雅が最後に見たものだった。
 
 
「と、まぁ、こんな事があったのだ。晴明」
そうですか
 溜め息交じりに晴明が呟く。
 今宵、晴明の邸を訪れるはずだった博雅の代わりに、その家人が血相を変えてやってきた。
 その取り乱しように、晴明が請われるまま博雅の邸に来てみれば、博雅の目が見えなくなっていたのだった。
「あれは、鬼だったのか?」
「そのようですな」
 脇息に身を預けて座る博雅の顔に右手をかざしながら、晴明は相槌を打つ。
「そうか。あのような、童の姿の鬼もおるのだな」
 見えぬ目を遥かに向けて、応える博雅の声は静かだった。
「目が見えなくなったというのに、落ち着いておられますな。博雅様は」
 しかし、当の本人以外の邸の者達は皆一様にうろたえて、色を失くしたまま、今も二人を取り囲むように座っていた。
 それを流し目に見ながら、晴明の口の端が微かに上がる。
「まったく、おまえという漢は
「いやな、晴明」
 博雅の声には、笑みすら含まれているようだ。
「おれは、こうなってみて、初めて蝉丸殿のことがわかったような気がするのだ」
「ほう
 晴明は、相槌を打ちながらも、かざした手を僅かずつ動かしていった。
「この闇ばかりの世界これが蝉丸殿の居られる世界か
闇の中に、音ばかりが満ちている世界
蝉丸殿の琵琶の音があのように素晴らしいのは、他のものに惑わされること無く、音だけを追っておられるからなのかと思ってしまう。
「あのような楽が奏でられるなら、光を失うのも良いかとも思ってしまうのだよ。おれは
「さてな」
 晴明の返事は素っ気無かった。
「蝉丸殿の居られる世界がどんなものかは、ご本人にしか解らんよ」
「う、うむ。そうだな」
 逢坂の関で、独り庵をあんで住む蝉丸と、家人たちの多く居る殿上人の博雅では生活する環境が違いすぎる。
 神妙な博雅の声音に、それに気付いたらしいなと晴明は笑みを浮かべた。
「おまえは好い漢だな。博雅」
 ふうわりと耳元で囁いたあと、晴明は気を取り直すように息をひとつ大きく吸って吐いた。
「とにかく、すぐにお知らせ下さって良かった」
「それはな、晴明。おまえの邸に行く約束をしておったのに、行けなくなってしまったのでな。その事を告げるつもりだったのだ。何かあるのか?」
「目が、無くなっておりまする」
 晴明の言葉に、周りを取り囲む者達がどよめく。
 しかし当の本人は、『そういえば、目を欲しがっておったな』と、溜め息混じりに呟いただけだった。
「目だけで、済めばよいのですが」
 晴明も、溜め息混じりに呟く。
「ひとつ手に入れれば、次が欲しくなる。永遠に癒されぬ渇きを持っておるのです。ああいうものは」
………
「博雅様。博雅様はこれから先、笛を吹かずにおれますか?」
「何故だ?晴明」
 まるで呼吸するかのごとく楽を奏でている博雅にとって、それは『死ね』と言うのと同じだと、誰もがわかっていた。それ故、周りを取り囲む家の者達は皆、縋るがごとくの目で晴明を見ている。それをまったく気にする様子もなく、晴明は笑みを浮かべた。
「されば、どのような結界で護ろうと、笛の音に乗って、その鬼はまた遣ってまいりますぞ。御身の総てを食い尽くすまで」
「晴明さま!」
「お願いでございます!」
「晴明さまっ」
 家人達は、口々に博雅を救ってくれと晴明に頼んでくる。博雅だけが無言だった。
「もとよりその心算。鬼を祓う支度をします故、博雅様には我が邸にて、禊に入って戴きます」
 
 土御門大路の北にある晴明の邸は、相変わらず人の気配が無かった。
 博雅を心配して付いてきた家人達を牛車ごと帰して、今、晴明と博雅は、いつもの庭を見渡せる濡れ縁に座していた。
 二人の間にはいつものように瓶子と、手には酒の満たされた盃が有った。
「禊をするのでは、なかったのか?」
「してるじゃないか」
 笑みを含んだ晴明の声音に、博雅が納得いかないとばかりに唇を尖らせる。
「いや。おまえの邸では、いろいろと面倒でな。逐一説明する手間を省きたい。おれにはおれの流儀があるのだ」
 それ以上に面倒なのは、この身分社会。殿上人と一介の陰陽師では、言葉遣いひとつにも気を遣わなければならない。いくら当人たちは心安い仲とはいえ、まさか家人たちの前で、その家の主を呼び捨てにしたり、揶揄ったりなどできはしない。
「ふうん
 納得したのかどうなのか、博雅は手にした盃の中身を口にした後、ボンヤリとしていた。
「どうした、博雅?」
「ああ先ほどは少し、不思議な感じがしたのだ、晴明。いつも来慣れておるこの邸もな、目の見えぬまま、おまえに手を牽かれて奥に進むうち、何やらいつもと違う異界に迷い込んで行くような、そんな心持ちがしたのだ」
「ほう
「まぁ、何処へ連れて行かれようと、おまえが一緒ならば、何の心配もないがな」
 微笑みながら言い切った博雅に、晴明からの応えは無い。
「どうしたのだ?晴明。そこに居るのか?」
 盃を、取り落とすように置いて、博雅はそのまま手を伸ばす。
「おいっ?」
 晴明は不安げに惑う博雅の手を取り、無言のまま、その指先に唇を触れさせた。
「晴明?」
 退こうとする手に、力を込めて引き留める。
「じっとしていろ、博雅。おまえの身体を獲られぬよう、印を施すゆえ」
「印?」
「まぁ身固めの護法の、応用だな」
 そう言って、指の一本一本すべてに唇を当ててゆく。
 続いて手の甲、手首。そして手首の裏側には、痕が付くほどに強く、唇で吸う。
 ふわりと空気が動いて、晴明の手が首の後ろに回されたのがわかる。そのまま身体全体が密着して、耳から首筋へと唇が触れて行くのが感じられた。
 時々、強く吸われる。
「晴明
「なんだ?」
「何やら、変な気分だ。身体が熱くなってきたぞ」
「そうか」
 意地の悪い笑みを浮かべて、晴明は応えた。
 博雅の顔を両手で撫ぜるように支えて、今は何も映さない瞳を隠すまぶたに、唇をそっと触れさせる。二度三度、それを繰り返すのを、博雅はされるままに、大人しく享けていた。
ん」
 くぐもった声を漏らし、博雅が僅かに身を硬くする。晴明の唇が、しっとりと押し包むように、自分のそれに重なって来たからだった。
 うっすらと微かに開いた唇の間から覗く舌先が、探るように撫ぜてゆくのを感じる。
 知らずそれを誘い入れて、自分のそれで絡め獲っていた。
 見えぬ目の代わりにと腕を伸ばせば、覚えのある狩衣の手触りと、見ていた時よりも華奢な身体がそこにあった。
 己の腕の中に納まってしまう小柄さに驚きながらも、その肩をしっかりと抱き寄せて、さらに深くと、求めていた。
博雅」
 名残惜しげに離れた唇が、名を呼ぶ。博雅は、熱い息を吐いた。
「さあ、笛を聴かせてくれ」
 耳元で囁かれる声に請われるまま、腕に抱いた細腰を逃がして、懐から竜笛を出す。
 唇に当てれば、するすると十六夜の月の下に流れ出た音色は、今までに無く、艶を含んでいた。
 程なくして、笛の音に曳かれるように、童子が庭の一隅に姿を現した。
『笛の音。もっと良く聞こえる、耳を頂戴』
 そう言って、泣いていた。
「この漢の、髪の毛一本たりとも、やる気は無い」
 博雅を庇うように立ちはだかった晴明は、懐から純白の紙を出すと、素早く形を整えて、童子へと放った。
「そなたに獲られた目も、返してもらうぞ」
 その言葉に操られるように、純白の紙は白い燕と化して、泣いている童子の頭を透り抜け、そのまま晴明の元へと帰ってきた。
 白い燕は晴明の手の中で、元の紙に戻っていた。それを傍らの博雅のまぶたの上に押し付ける。
 短く何事かを呟いて手を退けると、博雅が驚いたように辺りを見回した。
「おお!見えるぞ、晴明」
 その声には応えず晴明は、今や鬼の姿に変じようとしている童子に向けて、呪を唱えていた。
 動きを封じられた童子は、無くなってしまった目の痕の、虚ろに空いた穴から血の涙を流し、もがき、暴れていた。
「晴明。あまり手荒な事はするな。まだ幼き童ではないか」
 おろおろとしながら、今にも駆け寄って行きそうな博雅を流し目に見て、晴明は印を結び直し、別の呪を唱え始める。
「帰命頂礼地蔵尊
 此れは此の世のことならず 賽の河原の物語
 それは、今まで聞いた事のある呪とは違っていた。
晴明の深く透る声が、優しく宥めるように高く低く、月下の庭に響いてゆく。
「汝ら命短くて 冥土の旅に来るなり 
 娑婆は冥土と程遠し
 我を冥土の父母として
 思うて明け暮れ頼めよと
それはまるで、子守唄のように聞こえた。
 鬼に変じようとしていた童子は暴れるのをやめ、その声に聞き入っていた。
いつしか涙も止まり、じっとこちらを見ている。
「オン カカカ ビサンマエイソワカ」
 晴明が静かに呪を唱えると、童子の身体は、月の光に洗われるように薄れ、やがて消えていった。
「晴明」
 博雅が、感極まったように声を震わせながら呼びかける。
「今のも、呪か?何やらいつもと違うような気がするが
「地蔵和讃さ」
「おお。地獄に堕ちた者を救うという、あの地蔵菩薩のか?」
「そうだ。逆縁となった童を、慰め、救って下さるのさ」
 晴明は、やれやれというように大きく息をついて、いつもの場所に腰を下ろすと、柱に背を預けた。
「ではあれも、地獄に堕ちた亡者なのか?」
「まぁ、そんなところだ。それより博雅、いつまでも立ってないで座らぬか。酒がまだ、残っておるぞ」
「お、おお。あいやしかし、邸の者たちに、おれの目が治った事を早く知らせねば。皆、心配して、寝ずにおるやもしれん」
 そう言いながらも、心残りのように晴明を見る。
「大丈夫だ。今、おまえの邸に使いをやった。迎えが来るまで、呑んで待って居ればよい」
「おお!」
 うれしそうに応えて、博雅はようやく座った。
 瓶子の中身をあらかた飲み干した頃、博雅の邸から迎えの牛車が到着した。
 後日また改めて礼に来るからと告げて、博雅は晴明の邸を後にした。
 夜も更けた大路を、牛車に揺られながら、博雅は晴明の事を考えていた。
 この京を護った最強の陰陽師。呪を自在の操り、鬼神をも使役する
 しかしこの腕が捉えたその身体は、とてもそのような剛の者とは思えぬほど、細く、華奢だった。
 
『おまえのために行こう』
 
ふいに、晴明の声が思い出される。
 博雅はその言葉の意味を、今、改めて考えてみた。
「晴明
 名を口にするだけで、胸が熱くなった。
「おれもおまえのために行こう」
 どこまでも
 
 
 博雅を見送ったあと、晴明はひとり濡れ縁で座して、月を眺めていた。
 その唇に苦笑が浮かぶ。
「また、あなたか
 呟きに応えるように、先ほどまで博雅が座していた辺りに、もやもやと蔭が形をとり始める。
『わかったか
 蔭が人の形をとり、にやりと笑う。
「かような童の亡者に、あれほどの執着が在ろう筈も無い。何やら手を貸したモノがある筈と感じた故」
『なるほどのぅ
「私に含むところがあるのなら、直接私に仕掛けて参られよ。博雅に手出しをするのは、やめて頂きたいですな」
『ほほう。あの男の、髪の毛一本たりとも、他の者に触れさせたくは無いか。晴明?』
「人形に封じただけでは、お気に召さぬというのなら、もっと別な物に封じ込めて差し上げましょうぞ。道尊殿」
『いや、結構』
 その蔭は、笑い声を残して消えていった。
『中々に楽しい男だな。そなたは』
 残り香のように纏わり付く声に、晴明はムッとして素早く印を結ぶ。
『よいではないか。そなたも楽しんだであろう?』
 そう言って、今度こそ蔭も声も消えて行った。
「当然だ。何か余禄でもなければ、やってられぬわ」
 晴明は、独り月に向かって呟いた。
  
 遠く、冴えた笛の音が聴こえたような気がして、知らず晴明の唇に笑みが浮かぶ。
 そして愛しむように細く白い指で唇をなぞると、より笑みは深くなった。
 
              
《汝ら命 短くて ―了―》     












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