春の宵は価千金――

 

 肌に心地よい風に、花の香が匂う夜であった。

「どうしたのだ、博雅」

 この屋の主、安倍晴明が怪訝そうに問いかけるのに、源博雅は小さくかぶりを振って、視線をそらせた。

 酒肴を前に二人が座す屋敷の濡れ縁からは、庭が見渡せる。人の手の入っていない野のような庭のあちらこちらで咲く花が、夜目にも白く光っていた。

 この夜の酒は、さる公家の屋敷に出没する妖を見事鎮めたことに対する賜り物で、博雅が預かってきたものだった。

「あまり呑んではおらんようだが、おぬしの口には合わんのか?」

 そう問いながら、晴明は馥郁と香る盃の中味を口に含んだ。

「晴明

「ん?」

「今日、その酒を渡された時にな

「ああ」

「俺は言われたのだ」

 博雅は宵闇に向けて、その先を呟く。

―安倍晴明を、いかにして手懐けたのか?―

 そう問われたのだ。

 鬼神さえも思うように操る陰陽師。帝からの勅使をも無下に帰す男が、何故、博雅にだけは屋敷の門戸を開くのか? 

―寵愛しているのは、やはり何か、今後の頼みにと考えてのことであろう?― 

 そうも言われた。

 晴明が密やかな笑みをもらす。

「晴明?」

「よいぞ、博雅。おぬしが望むなら、何でもしてやろう。想うに任せぬ姫の心を変えさせるもよし、気にそまぬ奴の心を操って陥れるもよし、政敵を呪殺するもよし」

「俺は、そんな事は望んでおらん!」

 今にも殴りかかりそうな勢いで、博雅は叫んだ。

「晴明に何かをして欲しくて、ここを訪れるのではない。ただ俺は、晴明と共に過ごすことが好きだから、来るのだ」

「知っておるよ、博雅。知っておる」

 晴明は宥めるような笑みを浮かべて、博雅の盃に酒を満たした。

「俺も、博雅とこうして、取りとめもなく酒を酌み交わす事が、何より楽しいさ。おぬしが俺に頼み事をしてくる時は、いつも誰ぞ、他の者の頼み事だ」

「すまぬ

「何、構わんさ。しかしな、博雅」

 晴明は、満たした自分の盃を手に夜空を見上げる。

「人の目とはそんなものだ。まがりなりにも殿上人のおぬしが、一介の陰陽師でしかない俺の元に通うそこには何かあると、勘ぐってしまうのさ」

 苦笑とも、溜め息ともつかぬものをもらして、晴明は盃の中味を呑み干した。

「共に酒を酌み交わすだけでは、いかんのか?晴明」

「俺は一向に構わんが。まぁそれが、今の世という事だ」

 しばしの沈黙の後、突然博雅は瓶子を取り上げると、晴明が止める間もなく、一気に中味を飲み干した。

「博雅!」

 がたりと、瓶子が縁に転がる音と共に、博雅の身体もその場に崩れ落ちた。

 

 ふわふわと、漂うような感覚の中、博雅は自分が誰かに抱えられて移動しているのに気が付いた。足にまるで力が入らない。

「ん

 目を開けようと、僅かに頭を動かした途端、凄まじい程の痛みが頭を襲う。

 耐え切れず呻く博雅に、その身体を支える手に力が加わり、そっと横にさせた。

「まったく、こいつは

 間近で聞こえた溜め息のような声に、微かに目を開けると、傍らの唐衣の女に何やら指示をしている晴明の姿があった。

 いずこかに消えた女が手にして戻ってきた椀を受け取り、口元に右手の人差し指と中指を立て何やら呟くと、その中味を口に含んだ。

 細く冷たい指が博雅の顎をそっと捉え、口を開けさせる。そのまま顔を寄せて、口に含んだ物を博雅の口へと移した。

 何やら苦く、不可思議な味のする汁が喉を降りてゆく。しかしそれ以上に唇を覆う柔らかなものの感触に、耐えようのない甘さを感じていた。

 至福の時をさらに味わおうと求めると、それはふっと離れていった。

晴明…」

 目を開けて名を呼べば、すぐそこに心配そうに覗き込む晴明の顔があった。

 常に笑みを含んでいるような唇が、いつにもまして紅い。

「大丈夫か?博雅。今、薬湯を飲ませたから、直に楽になる」

「薬湯…?」

「そうだ。おぬしは酒の精にやられたのだ。あんな無茶な呑み方は感心せぬな」

「ああ…」

 そろそろと痛む頭を動かして辺りを見ると、そこはいつもの縁ではなく、奥の部屋の褥の中だった。直衣の襟がくつろげられ、身体の上には見覚えのある単がかけてあった。

「これは…おまえの?」

「まぁな…」

…すまん」

「気にするな」

 安堵したように晴明は囁いた。

「晴明」

「何だ?どこか苦しいのか」

「俺は、ここへ来ては行かんのか?」

 呻くような博雅の言葉に、晴明の身体が一瞬硬くなる。

「ただ酒を酌み交わすだけに来ては…まずいのか…」

「何を言っておるのだ。博雅」

「俺はな、晴明…」

 博雅の腕が、顔を覆い隠すように上げられる。

「ただ、おまえの事が、好きなのだ」

…ああ」

「それだけなのだ、晴明。陰陽師として何かをして貰おうとか、誰かをどうこうして貰おうとかなどとは、これっぽっちも思ってなどおらんのだ。なのに…何故」

「それはな、博雅」

 飽かず博雅を覗き込みながら、晴明は呟く。

「人は皆、自分の心の中を覗いているのだ。他人も、自分と同じ物差しで測ってしまうのよ」

………」

 返事の無い博雅に、晴明は薄く笑みを浮かべた。

「その様に勘繰られるのが不味いというなら、ここにはあまり、来ぬほうが良いかもなぁ」

「せ…っ」

 身を起こしかけた博雅は、途端に襲った割れるような頭の痛みに、そのまま固まってしまった。それに晴明が手を添えて、静かに横にならせた。

「寝ていろと、言っただろう」

 そう囁く声の主の身体に腕を回し、引き寄せる。すると思いのほか華奢なそれは、抗うことなく博雅の腕の中に納まった。

「どうした?博雅」

 胸の上、身体に直に響くように聞こえる声には、笑みが含まれていた。

「俺が何処かに、行ってしまうとでも思ったか?」

「晴明…っ…俺は…」

 知らず抱きしめる腕に力がこもる。

「他の誰にどう思われようと構わん。しかし晴明、おまえにだけは、その様に思われたくは無いのだ」

 腕の中の晴明の身体が、微かに震えたような気がした。

「本当におまえは…」

 溜め息のような密やかな笑みをもらし、晴明は首をめぐらせて博雅の顔を見た。

…好い漢だな」

互いの息がかかるほど間近にある笑みを含んだその唇が、紅さを増したように見えた。

 しばらく後、力の緩んだ博雅の腕から逃れた晴明は、横になったままの博雅を見やった。

 息遣いが落ち着いて、先刻より楽そうなのに安堵の息を漏らす。

「さぁ、暫く眠るといい」

「ああ…」

 博雅は肯いて、身体にかけられた単を顔のところまで引き上げた。

「前から訊こうと思っていたのだがな、晴明…」

「なんだ?」

「おまえ、香は何を使っておるのだ?」

「ああ…」

「麝香でも、白檀でも無し。伽羅に似ておるような気もするが、ここまで冴えた香はあまり知らん」

「そうさな…薬草なぞを手にすることも多い故、いろいろと混ざっておるのかもな」

「なるほどな」

博雅は大きく息を吸う。

「要するに、これが晴明の香だという事なのだな」

「そうなるか」

「ああ。まことおまえらしい、良い香だ」

「そうか…」

ふうわりと微笑むように、晴明は呟いた。

 

ようやく眠った博雅を残し、晴明は濡れ縁へと独り戻った。

転がったままの瓶子を手に取ると、空中へと投げ上げて、素早く印を切った。

ぱっくりと瓶子が割れ、音をたてて縁に砕ける。晴明はそれに、笑みとも溜め息とも付かぬものを漏らした。

「ほんとに、あの漢は…」

 その呟きには甘さがあった。

「殿上人であるおまえを、俺が自分のために利用しているとは考えんのか…博雅」

 そう告げれば、『俺はそれでも構わないのだ』と、そう博雅は応えるだろう。それがわかっているだけに、晴明は博雅との関係を大事にしたかった。

この世で唯一、傷付けたくないもの

「少し座興が過ぎまするなぁ」

 庭に凝る闇へと、言葉を投げかける。

「道尊殿」

 晴明の呼びかけに応じるように、闇が人の形を取り始めた。

『気には、召さぬか。この趣向』

「一向に」

『それは、残念なことよのう』

 闇から現れた男―道尊は、死んだ時の姿そのままに不敵な笑みを浮かべながら、濡れ縁の上に立つ晴明の横へと並び立った。

「自ら死したあなたには、京を脅かす力はもはや無いはず。何処へなりと行かれるが宜しかろうに」

『何を言う、晴明』

 さも可笑しそう、道尊は笑みを浮かべた。

『そなたの結界に閉じられし中で果てた儂に、此処の他、何処に行けと言うのだ?』

 楽しそうな道尊の言葉に、晴明は苦笑を浮かべた。

「私に憑くお積もりか?」

『そうよ。言うたであろう?そなたの行く末を見届けてくれると』

「ああ…」

 そういえば、そんな事を言っていたな…と思い出す。

「それで?」

『おお、今夜の事か。何、あの殿上人に、真の事を聞かしてやったまでの事。皆、腹で思うておっても、そなたが怖くて口にできん事をの』

「私が?」

『そうよ。京を征さんとしたこの道尊を、見事調伏した陰陽師、安倍晴明を恐れておるのだ。まこと京とは、奇なる処よのう』

 楽しそうに言い放つ道尊の目には、晴明を揶揄するかのような妖しい光があった。

『淋しいのう、晴明。所詮、殿上人など吾身のみが可愛いのよ』

 死して尚、力強さを感じさせる指が晴明の頬をなぞる。

『そなたの言いたい事はわかっておるぞ。博雅殿は違うと、そう言いたいのであろう?だからこそ、大事だと』

 頬から顎へと、そして唇を形のままになぞった指は、首筋をすべり、浅黄色の単衣の襟を割って中へと忍び込んだ。

『そなたは博雅殿の笛が聴けなくなる故、京を滅ぼしはせんと言うておったがな、まこと大事なのは、笛だけか?』

「それは…」

『先程は、少しは血が騒いだのであろう?博雅殿の腕に抱かれて』

「何を…」

 身を翻そうとする晴明の身体に、道尊の姿が靄のように纏わり付いて絡めとる。

『ならばあのまま、身を委ねてしまえば良かったものを。己の肉欲に溺れるのが怖いのか。晴明?』

「あ…」

 印を結ぼうと伸ばした指を掴み取って、腰に腕を回して引き寄せれば、仰け反った晴明の白い喉に、道尊の唇が這い紅い痕を付けてゆく。

『ほれ、このように。こんな世などに、さっさと見切りをつけて、儂と共に来い。晴明』

 夜目にも白い狩衣の前と、浅黄色の単衣の襟をはだけさせ、露わになった肌に唇と舌で紅い印を付けていった。

 狩衣の開いた脇から這い入った手が、袴の帯を解き、さらに奥へと蠢いてゆく。

「道尊殿…」

 吐息のように、艶を増した紅い唇から零れる声に、道尊の顔に勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。 

『何だ?』

「少々、戯れが過ぎますな」

まったく別の処から聞こえてきたその声に、道尊の動きが止まった。

「この代償は高くつきますぞ」

 笑みを含んだその声の方に顔を向ければ、濡れ縁に続く広廂に晴明が立っていた。

『晴明…』

 はっとして自分の腕の中の者を見れば、するすると縮んで、紙でできた人形へと変わっていった。

『流石だの、晴明。それ程、儂と共にあるは厭か?』

「そんな事は無い。道尊殿」

 くすり…と紅い唇に笑みが浮かんだ。

「ただ、あなたの物になるのは…な」

『ほぉ?ならば何とする気だ』

 何かを予想するかのように、道尊の唇にも笑みが浮かんだ。

「そんなに私と共にと言うのなら、ここに居られるが良かろうかと」

 そう言って晴明は懐から、赤茶けた人形を取り出した。

『それは、あの…』

「そう、あなたの最期を共にした人形よ。ここに居られませ。道尊殿」

『う、うぬ』

 抗えぬ力に曳かれるように、道尊の姿の輪郭が崩れ、やがてその人形の中へと吸い込まれていった。

「やれやれ…」

 手にした人形に呟きかけ、晴明は溜め息をつく。

「まこと京は、奇なる処でございますな。道尊殿」

 春の夜の香が甘く薫る。

「しかし、そう…捨てたものでも、ありません」

 奥の対に優しい眼を向け、晴明はうっとりと微笑んだ。







『春の宵は価千金』―了―












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