稀 有 の 華 〜 once in a blou moon 〜

「風が、出てきたようでやすねぇ」
 見えぬ外の気配を探るように、又市は呟いた。
「うむ。雨が降るのやもしれん」
 この家の主、山岡軍八郎が手にした盃を口に運びながら応えた。
 二人は時々、八王子の役宅でこうして酒を酌み交わしている。
「それで少しは、この暑さが凌ぎ易くなると良いのだがな」
「朱引きの内に較べりゃァ、こちらァ随分凌ぎ易いと思いやすがねェ」
「ほほう・・・そんなに暑いか。御府内は」
 軍八郎は先を促すように、又市の盃に酒を注いでやる。
「そりゃァもう。人が多いからでやしょうが…まぁそんな訳で」
「ん?」
「何もする気がおきねェと、百介様も言っておいででやした」
「そうか」
 短く応えた軍八郎の口元に、笑みが浮かぶのを又市は見逃さなかった。
「軍八郎様ァ」
「何だ?」
「そんなに弟様の事が気にィなるんなら、お会いになりゃァ宜しいでしょうに」
 別に禁じられてる訳じゃ無ェんだし…と言う又市の言葉に、軍八郎の笑みは苦笑に変わる。
「軍八郎様?」
「いや。良いのだ。百介の事は、こうして時折御行殿が報せてくれる…それで十分だ」
 柔らかい笑みを浮かべ盃を干す軍八郎に、又市は小さく溜息を吐く。
 八王子千人同心の山岡軍八郎の弟百介は、幼い頃に里子に出されていた。
 今は大店の蝋燭問屋、生駒屋の若隠居となっている。その弟と、たとえ血の繋がった兄弟であろうと、武士である者が頻繁に会うのは、痛くも無い腹を探られかねない。
 それでは百介の居る生駒屋に迷惑がかかると、そう軍八郎は考えているらしい。
「もしや…」
 ふと思いついて、又市は口角を上げる。
「どうした?」
「なァに…ちょいと思ったんでやすよ。軍八郎様みてェな方がァ、奴みてぇな乞食御行に酒ェ振舞って下さるなァ、百介様のご様子を聞きてェからじゃねぇか…てねェ」
 一瞬、軍八郎は呆気に取られた様な貌をし、すぐに笑い出した。
「これは…相済まぬ、御行殿。そう取れたか?」
 尚も笑いながら又市に酒を勧める。
「拙者には、そんなつもりは無かったのだがな」
「冗句でやすよ。奴だってそんな事ァ思ってやせん」
 又市も笑って盃を受けた。
「そうか。なら良いが。拙者は御行殿と酒を呑むのが愉しくてなぁ」
 それ故、百介にも内緒にしておる、と軍八郎は立てた人差し指を唇に当て、片目を瞑って見せた。

―― おおっと ―――

 その生真面目で実直な人柄にそぐわない子供っぽい仕草に、又市は眩りとする。

―― 弟よりもォ性質が悪ィ… ―――

 否、だからこそ。
 此処に来る事が止められないのだと、又市は密かに微笑んだ。

               ◇◇◇

 小さいながらも滝と川を抱く庭に面した座敷は、流れる水のお陰か茹だる様な暑さは無かった。
 回船問屋高麗屋の別邸の一つであるこの寮は、主、善右ェ門のお気に入りで、夏場は店よりもこちらに居る事のが多かった。
 商いの方は順調過ぎる程順調で、主が居ようが居まいが関係なく繁盛している。それ故、善右ェ門は還暦までまだ間がある歳で、いくつもの道楽に耽る毎日を過ごしていた。
 それでも金は貯まる一方で、その事が更に道楽に拍車を掛けてゆく。
 この豪奢な寮もその一つだった。

 却説。
 善右エ門は苛ついていた。人を待っているのだが、一向現れる気配が無い。絶大な財力を持つこの男には、大名家ですらご機嫌伺いに来る。
 その自分が待たされている。それが気に入らなかった。

――りん――

 不意に聞こえた鈴の音に、首をそちらに巡らす。
 庭を横切る川の向こうに、何時の間にか白い影が凝っていた。
「な…」
「小股潜りの又市と申しやす。奴に何か御用と承りやしたが?」
「あ、ああ…」
 闇から滲み出るように、一言毎に輪郭を明瞭にする白い影は身の丈四尺余り。矮躯に白い襤褸布を纏い、その表情は御行包みの下に隠れて見えない。首から下げた偈箱の模様が目玉の様にも見える。
 その異形さと現れ方に、善右ェ門の苛立ちは萎え、暫し呆然としていた。
 しゃらん!と。
 持つ身の丈を遥かに上回る錫杖が澄んだ音をたてた。
「どんなァ御用で御座いやしょう?」
 善右ェ門様、と呼びかけられて、我に返る。
「まぁこちらにお上がり。そんな所に居られちゃあ、落ち着いて話も出来ない」
「いいえェ。奴はここで。この様なご立派なお屋敷をォ、汚すわけにゃァいきやせん」
 嘲る様なその声は低く、深く、地を這うごとく、善右ェ門の膚をざわめかせた。
「そ、そうかい。なら手短に言うよ。八王子千人同心を知ってるかい?」
 八王子…と異形の影が呟く。
「そこに山岡軍八郎という者が居るんだが」
「その御方をォ…どうすれば宜しいんで?」
「いや、そうじゃ無い。用が有るのは弟の方でね」
「弟様…」
「ああ。名は百介というらしい。幼い頃里子に出されたとか」
「ほぉ?」
「その子が今何処に居るか、どんな人物で、何か弱味は無いか。それから」
 それからァ?と御行の口が歪むのに気付かず、善右ェ門は先を続ける。
「うまく誘い出して、ここに連れてきておくれ。出来るかい?」
 報酬ははずむよ、と付け加えた。
「期限は?」
「そりゃあ早いに越した事は無いがねぇ」
 どのぐらい掛かる?と問われて、七日後…と返事が返ってきた時には、御行の姿は消えていた。
「気味の悪い男だねぇ」
 夏の夜だというのに、善右ェ門の体には鳥肌が立っていた。

 高麗屋の寮を後にし、夜道を行く又市の表情は変わらなかったが、内心は可也慌てていた。
「上手くねぇな…」
 思わず思いが口をついて出る。
「何だい。あの爺ィは」
 不意に現れた華奢な影が、寄り添うように歩きながら呟いた。
「嫌な感じだねェ。金さえ有りゃあ、何でも出来ると思ってる口だよォ」
「実際その通りだぜィ。おぎん」
 嫌だねェ、とおぎんは頭を振る。
「そんな野郎がァ、先生を誘い出せってか?」
 もう一つの大きな影―長耳が、吐き捨てるように言う。
「引き受けるのかァ?又の字」
「駄目だよォ。あんな狒々爺ィに会わせたら、先生、只じゃ済まないよゥ」
「仕方ねぇだろ!」
 有無を言わさぬ又市の声が夜気を震わせた。
「又の字!」
「又さん!」
「奴がァ断わっても、他の輩に頼むだろォしよゥ」

 だったらいっそ引き受けておいた方が、手の打ち様も有るってもんだ

 そう言って、にやりと哂った。
「まずはあの狒々爺ィの事ォ、調べるのがァ先だな」
 わかったよゥ、と言う愉しそうな声が夜の風に消えた。


 夕暮れ時の八王子を又市は歩いていた。辺りにはまだ、畑を耕す人影がいくつもあった。
「御行殿ではないか?」
 思いがけず声を掛けられ、其方を見る。畑に並ぶ唐黍の向こうに軍八郎が立っていた。
 諸肌脱いだ上半身の、陽に焼けた肌が眩しい。
「珍しいな。こんな刻限に」
「へぇ…」
 いつもの饒舌は何処へやら。自分をまじまじと見る又市に気付き、軍八郎は笑った。
「今はお役目も無いのでな。これ、この様に田畑を耕しておるのだ」
 折角拝領した土地だからな、と首に掛けた手拭いで汗を拭いた。
「山岡様」
「ん?」
「ちょいとお話が…」
 そうかとばかり頷いて軍八郎は空を見上げる。
「丁度良い。今日はここまでにしよう」
 共に耕作をしていた人々に労いの言葉をかけ帰すと、又市と歩き出した。
「何か火急の用か?」
「どうしてそう…お思いに?」
 それはな、と軍八郎は空を示す。
「いつも御行殿が訪れるのは、夜の帳が下りてからだからな」
 空にはまだ、昼の名残が在った。

 役宅に戻ると、軍八郎は井戸の水で簡単に汗を拭い、濡れ縁に座る又市の横に腰を下ろした。辺りはすでに仄暗くなり始めていたが、風が出て、涼むには丁度良かった。
「高麗屋とは、また随分と久しぶりに聞く名前だな」
 下男の置いて行った、冷えた麦湯で喉を潤す。
「善右ェ門殿なら存じておるが…」
 それが?と目で問いかけた。
「ちょいと訳有りで。あの御仁がァ、どんなお人なのか知りてェんでやすよ」
「善右ェ門殿か…」
 軍八郎は遠くを見るような目をして、呟く。
「まぁ…一言で言えば、童の様な御仁だ」
「童…でやすかィ?」
「ああ。欲しいと思った物は、全て欲しい。何が何でも我が物にしないと気が済まない。そんな所が有る」
「ははぁ…」
 思い当たる節が有るのか、又市は息を漏らす。
「なまじ金を持っておられるせいで、大方の物は入手できてしまう。それ故、更に歯止めが効かぬらしくてな…」
「それが人でも…で御座いやしょう?」
「ああ」
 その通りだ、と軍八郎は肯いた。
「人でも、物でも、金の力で何とでもなると…そう思っておられるようだ」
 そう言う軍八郎の口元に不可思議な笑みが浮かんだのを、又市は見逃さなかった。
「軍八郎様もォ」
 又市は囁きながら、律儀に膝の上に置かれた軍八郎の手に己の手を重ねる。
「口説かれなすったんで?」
「ほお?色々と存じておるようではないか」
「そりゃァまぁ…」 
 蛇の道はへび…でやすからねぇと口の端で笑い、重ねた手を引き寄せて指先に口付ける。軍八郎はそれを振り払おうとはせず、楽しげな笑みを浮かべた。
「悋気か?御行殿ともあろう者が」
「そりゃァもう…こんな下賎の身にィ赦されるなら、で御座いやすがァ」
 聴く者を蕩かす様な低音の声で、又市は囁く。
「御行殿には敵わんな」
 返す軍八郎の項はほんのりと紅く染まっていた。 
「何が御座いやしたんで?」
「かなり以前の事になるがな。ある道場で、師範の代理として出稽古などしておったのだ」
 その折、別の道場から師範代として勧誘された。賃金の高い事を示し、強引な誘い方だった。
「しかし拙者はその道場の主に恩が有ってな。移る気は無いと断わったのだ」
 すると相手は、一度直に会ってゆっくり話そうと言ってきた。
 指定された場所に行くと、豪華な割烹料亭。その中でも一際豪奢な一室で待っていたのが高麗屋善右ェ門だった。
 分不相応なまでの饗応を受けながらも断わり続けると、今度は与力株を買ってやろうと言い出す始末。
「これには呆れたな」
「そりゃァまた…」
 余程気に入られたんでやすねぇ…と又市は呟いた。
 申し出は嬉しいが、と前置きして軍八郎は先を続けた。
「見ず知らずの方に、そこまでして頂く理由が無いと告げてな。そのまま座敷を後にしたのだ」 
「その後ァ、何も無かったんで?」
「何度か誘いは有ったがな。拙者が千人同心の株を買い、こちらに移ってからは静かなものだ」
 又市は、ほっと息を吐く軍八郎の手を握る手に力を込めた。
「それだけ…でやすかィ?」
「それだけ…とは?」
「何の見返りも無く、与力株をォ買ってやると」
 高麗屋は言いやしたかィ?と囁いて、手にした指の形を唇で辿る。
「それはまぁ…」
 御行殿程には強引では無かったが…と、すっかり暮れた闇の中で、軍八郎は密やかな息を漏らした。

 暫しの沈黙の後、軍八郎は座敷に上がると行灯に火を灯した。
「して、御行殿。何が有った?」
 燈る灯りの中から、今だ闇の中に座す又市に問い掛ける。その瞳は真っ直ぐ前を向いていた。
「実は高麗屋…」
 百介様に目を付けた様で御座いやす、と隠さずに告げた。
「真か!それは」
「へい」
 唯一手に入れる事が出来なかった軍八郎様の代わりの様で、と先を続ける。
「おのれ…!」
「大ェ丈夫でやすよ。弟様には指一本触れさしゃァしやせん」
「御行殿…」
「この件。奴に任せちゃァくれやせんか」
「如何する気だ」
「なぁに…ちょいと仕掛けをね…」
 闇の中にも拘らず、又市の目がきらりと光った。


 薄暗い中に、不釣合いな程に鮮やかな緋毛氈と日除けの傘。辺りに漂うのは甘い匂い。
「何呑気な事してンのさァ、又市」
 緋毛氈に座り、のんびりと饅頭に喰らい付いている又市に焦れたおぎんが、問い質した。
「しかも、何だって選りによって京極亭なんだい!」
「いいじゃねぇか。腹拵えぐれェしたってよ」
 応える又市は、次の饅頭に手を伸ばす。
「いいのかよゥ又の字ィ。刻限が迫ってるンじゃねぇのォ」
 長耳の呆れたような声も何処吹く風。ひたすら饅頭を口に運ぶ。
「又さん!」
『おやおや皆さん。今日はいったいどうしました?』
 店の奥から、この屋の主、京極亭のいつも何かを面白がっている様な声がした。それと共に双子の老婆が現れる。
「あらあら、今日は皆急いでるのね」
「お急ぎで、何処に行くの?」
 そっくりな老婆たちは、三人の座る緋毛氈の縁台の周りを飛び跳ねるようにして喧しい。
「なァに。ちょいと百物語に、招ばれやしてね」
 あっさりと答える又市に、おぎんと長耳は呆気にとられたように目を見張って、お互いの顔を見合わせた。
 いったいこの小股潜りは、何を考えているんだい?と。
『ほほう?百物語ですか。すると、あの考え物をしている若者もご一緒で?』
 百介さん…とか言いましたかねぇ、と声はわざとらしく付け加えた。
「いやァ…今夜なァ別口で。先生も来なさるが、開くのは回船問屋高麗屋の主でさ」
『高麗屋…』
「ご存知で?」
 又市の口元に、ちらりと笑みが浮かぶ。
『ええぇ…有名な御仁ですからねぇ。ああいう御自分の欲望に正直な方は』
 好きですよ、と声が哂った。
 非道く楽しそうに―――――



 七日前に訪れた高麗屋の寮に、又市は来ていた。但し今夜は一人では無い。
 考え物の先生、山岡百介が一緒だ。
「又市さ〜ん。本当にいいんですか?私みたいな者が、こんな大店のご主人の御宅にお邪魔して…」
「何言ってンですかィ、先生。先生の御宅だって、れっきとした大店でやしょう」
「いやぁ〜…私は只の隠居ですから」
 お店とは何の関係も無いんですよ、と眉を下げた。
「いいんでやすよ。百物語を開くにあたり、是非にというこちらの主の、たっての希望なんでやすから」
「そうなんですかぁ?」
 頷きながらも、未だ承服出来ないという感丸出しのまま、百介は豪奢な寮の門を潜った。
 百物語が催される座敷の中は、すでに準備が出来ていた。
 青い紙を貼った行灯。
 その灯りに照らし出された室内は青く沈んで、宛ら水底の様だ。
 風が有るのか、行灯の灯りが揺れる度に幾つかの影も揺らぐ。各々の貌は判然としない、茫洋とした影が蠢く。
 自分が入った時、その影達が一際大きくざわめいた様に感じて、百介は不安になった。
「又市さん」
 傍らに居た筈の又市の姿は無い。焦って辺りを見回すと、上座に座る人物とこちらを見ながら話していた。するとあれがこの家の主、高麗屋善右ェ門なのかと、百介は取り合えず頭を下げた。
 
 却説。
 百物語が始まったものの、百介は落ち着かなかった。何か自分の知っている作法と違うようなのだ。
 一人が何話か語ると、行灯の灯心を抜いて、そのまま部屋から出て行ってしまう。
 人数が一人減り二人減り、今や座敷の中に居るのは百介と又市と、主の善右ェ門だけだった。
 仄蒼い闇の中に、三人だけ取り残されている。
「あの…」
 何か言おうとして百介は、そのまま言葉を呑み込んだ。奥へと続く閉ざされた襖の隙間から、蒼い光が漏れている。
 それに気がついたのだ。
 ゆらゆらと、明滅する様な光。ひたひたと打寄せる様な、まるで脈打つような…蒼い光が。
「ま…」
「次は、奴が語りやしょう」
 畳み掛けるような又市の声に、百介は再び言葉を飲み込む。漸く、これは何かの仕掛けなのだと気付いた。
「人は」
 小股潜りの声が低く、蒼い闇の中を這い始める。
「業の深ーァい生き物で御座いやす。欲しいものは欲しい。その想いに、欲に終いァ有りやせん」
 又市が語るごとに、闇が深くなって行くようなそんな錯覚に襲われて、百介は幾度か瞬きをした。
「それでもォ、人間が手に入れられるモンにゃァ限りがある。全てが手に入るわけじゃァ無ェ…そうでやしょう?善右ェ門様」
 ああ…と影が頷いた。
「ならば…」
 又市の低い声に凄みが増し、更に闇が深くなる。
「ちょいと一歩…例えばァそこの襖を開けて踏み出すだけで、そんな杞憂の無ェ世界が」

 在るやもしれやせんぜィ

 甘い、蜜の様な囁きに、善右ェ門の体がふらりと立ち上がる。
 ふらふらと、蒼い光が漏れる襖に惹きつけられる様に歩み寄る。
 金具に手を掛け、引き開け様とした瞬間。
「待たれよ!」
 庭からの声。
「杞憂無き世界とは、どの様な物とお思いか?善右ェ門殿」
 声と共に障子が開けられ、座敷に光が差し込む。何時の間にか昇っていた月の光に洗われて、座敷の中の闇は隅へと退散した。
「あ…兄上?」
 百介の叫びに頷いて軍八郎は座敷上がると、襖の前で固まっている善右ェ門の肩に手をかけた。
「善右ェ門殿。久しいな」
「…や…山岡様」
「思うに任せぬ此方の世界は…お嫌いか?」
「いいえ…いいえ」
「ならば留まられるが良い。そなたには背負うて居るものが、沢山有るのだ」
 肯く善右ェ門の肩を抱くようにして、軍八郎は又市を真正面に見る。
「御行殿」
「へい」
「今宵の所は、拙者に免じて退いてはくれまいか」
「貴方様が宜しければ」
 如何様にも致しやしょう、と又市は頭を垂れた。

 襖の向こうの蒼い光は、何時の間にか消えていた。


後日。
 軍八郎と百介の姿が、隅田川に浮かぶ屋形船の上にあった。
「すごいですね、兄上。船がこんなに。岸にもほら、あんなに人が」
「ああ。流石だな。こんなに人が集るとは…」
「だって、突然の花火大会ですからね。皆、見に来ますよ」
 流石、高麗屋さんですね、と百介は笑う。
 夏も盛りの今日、突然高麗屋が隅田川で花火大会を開くと宣言したのだ。
 突然の事で、皆、半信半疑だったが、どう根回ししたものか、当日までには必要な準備は全て終わっていた。
「皆、すごく喜んでますよ」
「そういう金の使い方も有る、という事さ」
 軍八郎はそう呟いて、川岸に目をやった。
 そういえば、と百介が思い出したように言う。
「結局、あれは何だったんですか?あの夜の百物語・・・」
 未だ自分一人だけ蚊帳の外に置かれた感が有るのか、百介は軍八郎を問い詰めた。
「ああ。いや…まぁなぁ」
「今日だって、折角兄上共々ご招待して頂いたのに。船も別で、ご挨拶も出来なくて…」
「そうだな」
 何と答えたものかと助けを求める軍八郎の視線の先に、船尾に背を丸めて座る又市の姿があった。その背中は素知らぬ風で川面を見ていたが、小刻みに震えていた。
 笑っているのだ。
 助けは期待できぬと察した軍八郎は、小さく息を吐いた。
「兄上〜!」
「つまりだな、百介。その…善右ェ門殿は寂しがりやでな。常に人や物を傍に置いておきたいお人なのだ」
「高麗屋のご主人がですか?」
「そうだ。それで時々ああして、人を集めては騒がれるのだが…まぁ、それにお前も呼ばれたと、そういう事だ」
 今回と同様にな、と軍八郎は言い切った。
「そうですか…」
 今ひとつ承服しかねるという顔をしながらも、兄の言う事に嘘は無いだろうと百介は肯いた。
「良いではないか。そう言う事で。中々面白い趣向だったのであろう?」
「ええ。それは勿論」
 得難い経験でした。と微笑む百介に、軍八郎も同じような貌で微笑み返す。
 そんな仲睦まじい兄弟の姿を肩越しに見ながら、又市はあの夜の軍八郎と会話を思い出していた。
――このままで、宜しいんで?―――
 そう問う又市に応える軍八郎は、やはり微笑んでいた。
――あの御仁を、人を人とも思わぬ悪党と断罪するのは容易いが―――
――これまでに自分の所有物としてきた者達の人生をも、背負っているのもまた事実―――
 お店の者は勿論の事、善右ェ門の金に縋って生きている者達も多数居るのだ。
「要するに…テメェで捲いた種はァ、テメェで刈り取れってェ…事か?」

 誰の手も借りず…仮令それが妖の手であっても

 突然大きな歓声が上がり、夜空に大輪の華が咲く。
「兄上!又市さん!上がりましたよ。ほら!」
 百介の声が楽しそうに響く。
「おう」
 そう応えて、空を見上げる軍八郎の顔も楽しそうだ。
 夜空を照らす色とりどりの大輪の華が咲く度に、歓声が上がる。

 人の手で咲かせる華が、夜を明るく照らしてゆく。

「まったくなァ…」
 どこまでもお天道様の下を行くお方だと

 又市は笑みを漏らした。


    

                                    稀有の華 〜once in a blue moon〜 ― 了 ―


8月の夏コミ発行のコピー誌掲載のSSです。

05,09,11

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送