蛍
―――その時。
兄、軍八郎の見せた表情に、百介の鼓動は大きく跳ねた。
梅雨時らしく、空気は湿気を含んでいたが雨は無く。
江戸に出てきた軍八郎と待ち合わせ、本屋などを冷やかしながら、久方振りの兄弟水入らずの会話を楽しんでいた。
幼いうちに里子に出された百介は、長じてから再会した兄が好きだった。
この平成の世に在って尚、文武両道の誉高き八王子千人同心の軍八郎は、極楽蜻蛉の自分とは違い、しっかりと大地に根を張った堅実さと、安心感がある。
血の繋がり以上に軍八郎も自分を大事に思っていてくれ、傍に居ると心が落ち着くのを感じた。
その兄の、思いもしなかった貌に、百介は驚いたのだ。
それは、歩き疲れて足休めにと入った池端の茶屋の縁台で、冷たい麦湯を飲みながら又話す。そんな中での事だった。
その時、何を話していたか?百介は考える。
あれは―――。
あれは何時も何処の野に在るとも知れぬ矮躯の御行が、百介の居住する離れを訪ねてくれた昨夜の事。
珍しく土産を手にしていたと。
『珍しくもありやせんが』
そう嘯いて、矮躯に纏った襤褸の中から出てきたのは、まだ瑞々しい草の葉を編んだ小さな篭。
中には淡い光を放つ蛍が何匹か入っていた。
無論、蛍など、この江戸でも見られぬものでは無い。
しかしこの、人を人とも思わぬような、些かつれない御行が持ってきてくれたとなれば、それはまた意味が違う。
百介は嬉しかった。と―――
そう話した時。
ほんの一瞬。軍八郎の面を笑みが掠めた。
ふうわりと、匂うような。
甘く、見る者を蕩かすような、成熟した男の艶を含んだ笑み――――
「どうした?百介」
怪訝そうにこちらに問う軍八郎は、いつもの謹厳実直、堅物そうな兄の顔。その目には包み込むような優しい光がある。
「ああ…いえ」
それ故、自分の見間違いだったかと百介は思った。
「兄上は…もう蛍、見ましたか?」
「蛍かぁ…」
ふむ…と軍八郎は息を吐く。
「八王子はここと違って草深い田舎だからのう。役宅の庭からも、いくつか飛んでおるのが見られるよ」
そう言って笑う兄の顔には、何の屈託も無いように見えた。
黄昏時。
親友の同心、田所と会うという軍八郎と別れ、百介は帰ってきた。
居住する離れの中の薄闇に、草の篭を透かして灯る淡い緑の光。
無言でその草の篭を手にすると、編まれた葉はかなり瑞々しさが失われている。
「………!」
嗚呼…この草の葉の篭は―――
百介は唐突に悟る。
八王子のあの庭で、編まれた物だと。
あの矮躯の御行は
此処を訪れるよりも先に
草深い庭のある八王子の
あの役宅を訪れていたのだと
そう――――
気付いた時には、手にした篭の形は崩れ。
薄闇に沈む離れの中を、明滅しながら飛ぶ、幾匹かの蛍の姿。
それを見るともなしに眺めながら、百介は思う。
この気持ちは―――何?と。
誰に対するものなのか?と。
兄のあの見る者を蕩かすような笑みと、昨夜、自分の頬を撫ぜた御行の淡い燐光を発しているような無骨な指の感触を思い出し。
身が震えた。
声を持たぬ蛍の光は、恋しい相手への呼びかけだと聞く。
自分の声は彼の人に届くのだろうか、と
百介は思った。
〜了〜
<08,06,22>
鳴かぬ蛍が身を焦がす
まぁそんな感じでw
うちの又さんと兄上は危険な『火遊び』をしておりますが、共通してるのは百介が大事だという事。
百さんに知られちゃイカンのよw
二人の『火遊び』は其々の利害が有っての事なんで納得づくだけど、百さんにはそのへん事が理解できるとは思えないので。
しかーし。二人が思ってるよりも百さんは聡いので、もっと注意が必要だと思うのよん。
努々侮る事無かれw
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