緋 椿
そろそろ松も取れようかという頃。
八王子に弟の百介が病に伏したという知らせが届き、山岡軍八郎は運良くお役目が無かった事を神仏に感謝しながら江戸・京橋に急いだ。
幼い頃、里子に出された百介は現在、江戸でも五指に入る大店・蝋燭問屋生駒屋の若隠居だ。
若いのに隠居とは可笑しなものだが、先代が亡くなった時、養子の自分が店を潰しては申し訳ないと、大番頭だった喜三郎に主の座をあっさりと譲り、自分は先々代の収集した書籍文書と共に、離れでひっそりと暮らしていた。
いつかは百物語を開板するのだと、怪談奇談を求め諸国を巡る旅に出ている弟のそんな自由さを、軍八郎は密かに羨ましくも愛しくも思っていた。
その百介は今、生駒屋の奥座敷で床に臥している。
一昨日、いつものように出掛け、帰ってくるなり倒れたという百介の顔は血の気が失せ、驚くほど白い。
軍八郎はその枕元で、もう何度目かの溜息を吐いた。
「わからん…」
独学ではあるが、それなりの医術の心得はある。寧ろ、その辺の町医者よりは詳しいほどだ。
それでも百介の病の原因が判らない。ただ判るのは、自分の血を分けた弟が日に日に衰弱して行くという事だけだ。すぐ横に軍八郎のための布団がのべてあったが眠る気にもなれず、ひときわ大きく息を吐くと、百介の白い顔に今一度、目をやって立ち上がった。
気分転換のため座敷を出ると、夜はとうに更け、辺りはしんと静まりかえっていた。
月が明るい。
足が勝手に百介の寝起きしていた離れへと向かう。
こじんまりとした離れの中は、溢れんばかりの書籍文書で埋まっていた。
と。
窓際の文机の上に、場違いなほど鮮やかな紅い椿の花。
「ああ…そういえば」
店先で倒れた百介の手には、紅椿の枝が握られていたと言う。誰かがそれを生けておいたのだろう。
「んん……?」
軍八郎は微かな違和感を覚えて、もう一度離れの中を見回した。
刹那。
りん。
夜の静寂を透る、聞き間違いようの無い音に、軍八郎は素早く外に走り出る。
闇の中、滲み出るように御行装束が佇んでいた。
「…御行殿」
「これはァ山岡様。ご兄弟水入らずの処にィお邪魔いたしやす」
襤褸布を纏った矮躯を更に屈め、又市は低く囁いた。
「御行殿…百介は…」
「存じておりやす。何やら又ァ妙な事になっていなさるようで」
「まったく、御行殿はお人が悪い」
軍八郎は又市の軽口に怒りもせず、逆に笑みを浮かべた。
「存じておるなら…」
どうしたら良いのだ?と口には出さず、百介の眠る母屋の方に目をやる。
又市もすぐには答えず、母屋の方を見た。
「何か策はあるかの…?」
「無い事も無ェですが…」
「あるのか!」
「へい…」
彌勒三千の小股潜りにしては、歯切れの悪い物言いだった。
「どうした、御行殿?そんなに難しい事なのか」
「ある意味…そうで」
それでも…と促す軍八郎に、又市は口角を僅かに歪め、離れへと上がった。
書物の間を通り、窓際の文机の前に立つ。紅い椿の花が月の光の中で焔のように輝いて見える。
ごくりと、軍八郎が唾を呑み込む音が聞こえた。
「どうしやした?」
揶揄を含んだ声に、軍八郎は眉を顰める。それでも目は椿の花から離さなかった。
「この花ァ…斬れやすかい?」
「え…?」
「この紅ぇ椿の花、斬ってごらんなせぇ」
「まさか…」
軍八郎は唸りながら、椿の花と又市を交互に見、覚悟したように頷いた。
「罪人の首ィ落すつもりでお願ェしやすよ」
「嫌な事を言う…」
苦笑いしながらも、退いておれと身振りで示し腰を落とした。
裂帛の気合。椿の花がころりと畳の上に転がる。
「何?」
斬った瞬間、顔に飛び散った飛沫を手で拭うと、それは紛れも無い血。又市に促され見ると、畳の上に転がった椿の花は白い。
「御行殿」
「この椿…元ァ白い花だってェ話で」
元は白い椿だったが、何時からか紅い花が。
「何故そのような…」
「根元で人死があったとォ、聞きやした…」
それ以来、何度も同じような事が続いたとも。 そう続ける又市の目線を追うと、そこには落としたはずの椿の花が、紅く霧状に凝り始めていた。
「これは…」
霧状の花は、見る間に紅い椿の花に。
「花が血の味を覚えたんでやしょう…」
「椿が血を求めて、人を呼んでいると…?」
「さぁて…かなり昔の話でやすからねぇ。恐れ避けられて居る内にィ忘れられ、今じゃァ近寄るモンは居ねぇ筈で」
「そこへ百介が行ったと?」
「ええまぁ…先生はそうゆうモンに鼻が利きなさる」
又市は、困ったような笑みを浮かべた。
久々の『餌』と憑かれたか…
「その場所、存じておるのか?」
「勿論で」
「案内してくれ」
「危のう御座ェやすよ?」
「何を今更。ならば御行殿は場所を教えてくれるだけで良い」
「ご冗談を。ご一緒しやす」
ただし。と又市は後ろに下がった。
明日の夜まで待ってくれ、と。
「何故?」
「化けもの退治するにゃァ、それなりの準備が必要で」
「…それほどの相手なのか?」
「そりゃまぁ…年季が入ってやすからねぇ。なぁに、軍八郎様の腕なら大ェ丈夫でやすよ」
では明晩…と声を残して又市の姿は闇に融けた。
次の夜。
百介の枕元で、軍八郎は目を閉じて座していた。
主の喜三郎に、今夜には決着すると告げたものの、自身、何をどうすれば良いか判ってはいない。ただ又市を待つばかりだ。そんな軍八郎を、やはり少し控えて座している喜三郎が心配そうに見ていた。
不意に軍八郎が目を開け、立ち上がった。
「軍八郎様!」
喜三郎が取り縋る様な目で、腰に刀を差す軍八郎を見る。
「案ずるな。行って参る」
百介を頼む、と言い置いて、軍八郎は奥座敷を後にした。
りん…と、幽かだが確かに鈴の音がした。だがそれは、何時に無く弱々しく聞こえた様な気がして、軍八郎は不安になる。
よもや又市にまで何かあったかと。
離れに行くと、前に白い影が佇んでいるのが見えた。
「お待たせしやした…軍八郎様。行きやしょうか…」
「御行殿…」
何やら酷く疲れた様子の又市に、軍八郎の声音が気遣う物になる。それを振り払う様に、又市は裏木戸の戸を開けた。
夜の江戸の町を抜けて椿の元へ。言葉も無く走り抜ける。
何時しか人家は疎らとなり、荒れ野の外れの寂れた神社へと辿り着いた。
闇の中。樹一面に咲いた仄紅い花が明滅するように揺れる。
まるで心の臓が脈打っておるようだ…ぶるりと軍八郎の身体が震えた。
「おのれ!よくも百介を」
思わず腰の刀に手が行く軍八郎に、又市の手がそれを止めた。
「軍八郎様。ありゃァ並みの刀じゃ斬れやせん」
「うぬ!」
離れで斬った椿の花を思い出す。
「これを…お使いなせぇ」
差し出されたのは襤褸布で包まれた長物。その上一面に文様の書かれた札が貼ってあった。
「これは?」
軍八郎が受け取り、札と襤褸布を剥ぐと、中から現れたのは装飾の施された反りの無い太刀が一振り。
「これは…どこぞの神宮の御神刀ではないか」
鯉口を切り、僅かに刃を出すと、その輝きから隠れるように又市が身を縮める。
「御行殿…」
かちりと刃を納め、気遣うように片膝をついて覗き込む軍八郎に、又市は口の端を僅かに歪める。
「奴に出来るのァ…ここまでで。後は宜しくお願ェしやす」
「承知」
武家らしく短く応えると、軍八郎は御神刀を腰に佩いて椿の木と対峙した。
「参る!」
御神刀を抜いた瞬間。殺気にも似た何かを、椿から感じた。
それをぐっと睨み付け、上段に構えると丹田に力を溜めた。
「せいっっ!」
気合と共に、刃を対峙する椿に振り下ろし、更に返す刀で横に薙ぐ。
血煙のごとき紅い霧が、生温かく全身を包み渦巻くのも構わず、軍八郎は一歩も引かず、その相手を睨んでいた。
袖が紅く染まり、引き千切られる様に重くなる。頬や腕にいくつか鋭い痛みが走るのに耐え、更に睨む目に力を込める。
手にした御神刀の輝きが一層増したように思え、それを椿へと掲げる。
刹那。辺りを覆うように渦巻いていた紅い霧が、呻き声の様な音を上げ、霧散した。
御神刀は夜半の闇の中とは思えぬ輝きを放ち、その光に洗われる様に、紅かった椿の花は、その色を白く変えていった。
「百介…」
思わず軍八郎は呟き、背後の御行を振り返る。
又市は蹲り、苦しそうに肩で息をしていた。
「御行殿!」
駆け寄ろうとした軍八郎を、又市は弱々しく手を上げて制した。
「軍八郎様ァ…お刀を…」
「む?ああ」
はたと気付き、軍八郎は御神刀を懐紙で拭いて鞘に納めると、腰から抜いて両手で明け始めた空に掲げた。
「我が弟の命、救って下さった事、心から御礼申す。真に忝い。いずれ日を改めて、必ずや感謝の意を捧げに参る故、今夜の無礼をお許し戴きたい」
そう高らかに謳い上げ、心から感謝の念を込めて頭を下げた。
「軍八郎様…」
又市の声に顔を上げると、捧げ持っていた筈の御神刀は消えていた。
「これは…っ」
慌てて辺りを見回すが、影も形も無い。
「いったい何処に…」
「大方、塒に戻ったんでやしょうよ」
「戻ったとは…いったい何処に?」
同じ問いを繰り返し、蹲ったままの又市を見る。
「聞かねぇ方が、宜しいんじゃ?」
「そうはいかん。礼をすると確約したのだ。場所が判らねば困る」
律儀に答える軍八郎に、又市は口の端に笑みを乗せる。
「御行殿!」
「なぁに…その必要はありやせんよゥ」
ほら…という様に、又市は軍八郎を指差す。
「あちらさんはァ…納得されてるゥようですぜ」
見れば、あれほど朱に染まっていた袖は、今はその痕跡も無く、奇麗に乾いていた。
「ああ…」
「傷も残っちゃいねぇようだし。軍八郎様の御誠意を感じて満足されたんでやしょう」
「そんな…ものか?」
今ひとつ納得できないという貌のまま、軍八郎は又市の傍らに膝をついた。
「して、御行殿は大事無いか?」
「奴はァ…」
未だ立ち上がる事の出来ない又市は、僅かに目を逸らす。
「済まなかった。我が弟のために…」
「なぁに…ちぃとばかし、相性が悪かっただけで」
大事は無いんでさぁと嘯く御行に、軍八郎は深々と頭を下げた。
「やめて下せぇよ。後生の悪ィ」
「しかし…礼は礼だ。そなたは百介の命の恩人。しっかりと礼をしたい」
生真面目に言い募る軍八郎に、又市は人の悪い笑みを向ける。
「そんなに仰るならァ…」
どうなっても知りやせんぜと囁きながら、軍八郎の頤に手をかけた。
「軍八郎様の気を、ほォんの少ォし、分けて戴けやすか?」
「気?」
「へい。動けるぐらいでェ結構でやすから」
「それは構わんが…気とは、何だ?どうやって分ける?」
「なぁに簡単で。ほれ、こうやって」
低い声で囁き、軍八郎の頤に添えた手を己の方に引いた。
「む…」
軍八郎の唇が、又市のそれに触れる。そしてそのまま包み込まれた。
ねっとりとした舌が、軍八郎の口内を探り、犯す。徐々に深くなってくるそれに、軍八郎の息は上がってきた。 気が付けば矮躯の御行の身体を自らの膝に乗せ、抱えていた。
ちゅ…と湿った音をたてて唇が離れ、名残惜しげな吐息がどちらからとも無く漏れる。
「これで…良いのか?」
「ええェ。まぁ…ホンの手付けで御座ぇやすがね」
手付けか、と軍八郎は笑った。
「では後日。旨い酒を用意して待っておるわ」
「そりゃァ愉しみで」
お互い顔を見合わせて、にやりと笑う。
同じ密か事を持った者同士の笑み。
「さぁて」
身軽に立ち上がった又市を見て、軍八郎も袴の膝を掃った。
「戻りやすか。先生がお待ちかねだ」
「ああ」
夜は白々と明けていた。
後日。
すっかり回復した百介を伴って、軍八郎は神社周巡りをしていた。どこの御神刀か判らないまでも、御礼を述べたいと思ったのだ。
きっと神仏は皆知り合うて居るはずだから、伝わるだろうというのが百介の意見だった。
「だって八百万の神様は、神無月には皆、出雲の国に集るのですから」
「そうだな」
ふうわりと微笑む弟に、兄も微笑む。
「そういえば。その後、御行殿には会えたか?百介」
「はい。又市さんの方から容態を見に来てくれて。とてもお元気そうで、私は安心しました」
あの夜の又市の様子を軍八郎から聞かされ、百介はとても心配していた。が、離れを訪れた又市は、いつもと変わり無い様子だった。
「兄上にお礼を言っておいて欲しいと、そう言われました」
「礼を?」
「何でも、自分には勿体無い程の物を頂戴した…とか。何の事ですか?兄上。まさか私のために、無理をなさったんじゃ…」
「何を言う、百介。お前の命の恩人だ。何をどれだけ差し上げても、みあう物ではないぞ」
心配そうに見る弟に、軍八郎は優しい笑みを返した。
「御行殿も、それは解っておられるよ」
そう言って、百介の髪をくしゃりと撫ぜた。
御行と、兄の二人だけの『密か事』がもうひとつ。
それはお互い、百介が大事だという事だった。
〜了〜
後日談
「何故、今回はあの様な事を?」
「あの様…とは?」
「御神刀の事よ。霊験あらたかな御行殿の札ではいけなかったのか?」
「ご不満で?」
「いや。そんな事は無いが…しかし、そなた…身体にはきつかったのであろうが?」
「こんな乞食御行の身ィまで気にかけて下さるとはァ、軍八郎様はお優しい…」
「はぐらかすで無い。手の皮膚が焼け爛れておったではないか!」
「ははぁ…気付かれてやしたか…」
「気付かいでか。あのように…顔を撫ぜられて…」
「これァとんだ失礼を。いやァなぁに、時節柄…とでも申しやしょうか…」
「時節柄?」
「へい。正月ぐれぇ神仏に頼るのもォいいかと、思いやしてね」
「なるほど…な」
二人はどちらからとも無く、手にした盃を掲げて口に運んだのだった…
おそまつ
季節ネタ(笑)
昨年の正月に参拝に行った伊勢神宮で見たポスターの御神刀の写真が、あまりに素敵だったのでvvv
更に今年参拝に行った熱田神宮の宝物館の所蔵品、金銅鶴丸文散兵庫鎖太刀とかもvv
こーゆー素敵な拵えの太刀を、軍兄に持たせたいなぁ…という(欲望に正直)
何しろ軍兄の刀は、まったく飾り気の無い拵えだしね
しかし又さん、どこの神宮から持ってきたんで御座いましょうね?(笑)
まぁ何にせよ、命がけだわな
2007,01,07 UP
2006,01,08 wright
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