夜 薫

 夜気に甘い香が混じっていた。
 道の脇の藪に白い花が見える。ああ梔子か、と山岡軍八郎は熱を持った様な頭のどこかで思っていた。
 他には何も考えず歩を進める。否、何も考えたくなかったのだ。
 今考えれば、思い浮かぶ事は決まっている。

 …りん。

 不意な鈴の音に足を止めて、辺りを探る。程なくして、道の先の闇から白い影が浮かび上がった。
「…御行殿か」
「へい。山岡様」
「拙宅に参られたのか?」
「そうじゃありやせんが…」
 何やら落ち着きの無い軍八郎の様子に、又市は怪訝そうに僅かに目を眇めた。
「血の匂いが…致しやすねェ…」
「む…」
 軍八郎が身が幽かに竦むのがわかる。
「お役目で?」
「ああ」
 短く応えて、何かを振り払うように頭を振る。
「お役目とは云え」

 人を斬るのは嫌なものだ―――――

 そう呟いて、大きく息を吐いた。
「罪を犯しゃァ、裁かれるのは必定…でやすよ」
「ああ」
「斬られるなァ本人の咎のせい。山岡様が気に病まれる事ァ無ェでやしょう?」
 しかしな…と軍八郎は、また大きく息を吐く。
「そうと解っていても」
 そう呟きながら、路傍の石に腰を下ろす。脇には甘く香る梔子の花が、夜目にも白く浮かんでいた。その花を弄び、摘み取って言葉を続ける。
「同じ人、だからな…」

 ああ――――――

 ポツリと呟かれた言葉に言いようの無い既視感を覚え、又市は口の端で小さく笑った。
「御行殿?」
 気配で察したのか、軍八郎は決まり悪げに又市の方を伺っていた。
「今更この様な事を言っても、詮無い事じゃ。済まなかった」
「山岡様に謝られる様な事ァ、奴にゃあ何ンにも御座いやせんぜィ」
「いや…本来ならここで逢ったを幸いに、拙宅までご足労願って酒の一献でも酌み交わしたいのだが」
 ふっ…と息を漏らして、軍八郎は自分の手を見る。
「今宵の拙者とでは、御行殿が興醒めしてしまおう」
 この様に、血の匂いがしていてはな…と、力無く笑った。 
「そんな事ァ…有りやせん」
 口の端の笑みを一層深くして、又市は軍八郎の手に触れる。
 竹刀だこのある、節の確りした手。その形を親指でなぞってゆく。

 先に別の場所で触れたのとは違う、無骨な手。
 
 でもしっかりと同じ”血”が流れている―――

「血の匂いなんざァ、もう…何処にもしやせんぜィ?」
 そう囁きながら、指に唇を触れさせる。
「御行殿…何を…」
 幽かに震えた声がした。しかし指はまだ手の中にあった。
「甘ぇ匂いが…致しやすよォ」

 夜の薫が、いっそう濃くなったような気がした。




〜了〜








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