立葵
 



 思わず鯉口を切りそうになった手を押さえつけられ、軍八郎は目の前の相手を睨み付けた。
 その視線を物ともせず、相手は更に顔を近づけて囁いた。
「念友となれば支援は惜しまん。どうだ?受けてはくれんか」
 喰うにも困っておるのだろう?
 屈辱に朱が走った軍八郎の頬を嬲る様に、生暖かい息が触れた。
 その肩越しに見える窓には、立葵の紅い花が咲いていた。

 ***************


「どうした?軍八郎」
 田所真兵衛は、碁盤を挟んで座る山岡軍八郎に怪訝そうに声をかけた。
 長考の末、漸く石を置いて顔を上げると、相対する軍八郎がじっとこちらを見ていた。それでいて、心此処に在らずとういう態だ。
「どうした?」
 もう一度声をかけると、我に返ったように瞬きした。
「ああ…済まぬ。少し呆けておったようじゃ」
「何だ。お役目で疲れておるのか?それとも、もう暑さにやられたか?」
「いや…」
 そうでは無いと曖昧に微笑んで、軍八郎は外に目線を流す。何本もの立葵が紅い花を付けているのが見える。 
「少うし、厭な事を思い出しただけだ・・・」
「んん?」
「否、何でもない」
 緩く頭を振って、石を手に盤面に目を戻す。その様子を田所が苦虫を潰したような顔で見た。
「どれ?」
「え?」
 声に顔を上げた軍八郎の額に、田所の額がぶつかってきた。
「何だ、いったい?」
「うむ。熱は無いようじゃが…」
 碁盤の縁に両手を突いて身を乗り出したまま呟いた。
「当たり前じゃ。拙者は何処も悪く無いぞ」
「なら良いが」
 尚も探るようにこちらを見る田所に、軍八郎は指に挟んだ碁石を突きつけた。
「心配してくれるのは有難いがのう、田所」
「有難いが、何じゃ?」
 指をゆっくりと下ろす。
「この勝負、御破算だと言うておる」
「や…これは〜…」
 碁盤の上の石は、滅茶苦茶になっていた。


 石を片付けながら軍八郎は想う。
 あれは同心株を買うための金子を蓄えようと、切り詰めた生活をしていた時期だったか…と。
 碌に喰い物にも着る物にも頓着せず、ましてや遊びなど何もせず、ただ只管精進の日々。確かに爪に火を灯す様な貧しい生活ではあったが、別段辛くはなかった。
 それは確固たる目的に向かい、邁進する日々だったから。
 なのに―――――
 何を思ったか、援助申し出がいくつかあった。勿論、見返りを要求された。
 全てが全てとは言わないが、大概似たり寄ったりの要求で、無論全て断わった。
 稀には好意から出た申し出も有ったかも知れぬ。しかし同朋以上に好意を持てぬ相手に、それ以上を求められても困るだけだ。


「…田所」
「あん?」
 石を手にしたまま顔を上げた田所の額に、今度は軍八郎の方から額をくっ付けた。
「お主だけだな」
「何がじゃ?」
 怪訝そうに見返しはするものの、身を反らしたりはせず、尚問いかける。
 それに笑いかけ、鼻先をぺろりと舐めた。
「な、な、何をする!軍八郎ー!」
 飛び退くように後ずさり、手で鼻を覆った田所の顔は真っ赤になっていた。
「だから、さ。こんな莫迦な事、出来る相手はお主だけじゃと言うておるのだ」
「嬉しくないわー!」
 赤くなって怒鳴る田所に、軍八郎は最上級の笑みを向けた。





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