蚊帳の中
気配を感じて、山岡軍八郎は目を覚ました。
辺りは暗く、蚊帳に囲まれた床の上からでは更に周囲は糢糊として、見渡せない。ただ雨の音がするばかりだ。
ふと。
蚊帳が揺らいだ様な気がして、そちらに目を遣ろうとした刹那。起き上がろうとした身を押さえ込まれた。
何奴!と誰何しようとして、自分に圧し掛かる陰に見覚えの有るような気がした。
「田所か?」
問えば肯いたようにも見える。
「何事だ。この有様は?」
押し退け様と身を捩れば、肩口に手が掛かり、更に強く押さえ込む。
「何を…!」
怒気を含んだ声は生暖かい湿った物に遮られ、更に侵入したそれに為す術も無く口内が蹂躙される。
抗議の唸り声と共に、何とか払い除け様と相手の身体を押し返すが、頑として動かない。何時の間にか掛け布団を取り去り、直に軍八郎の身体を組み敷いていた。
夜着の肩が肌蹴られ、口内を犯していた物がゆっくりと項を這って肩口に吸い付く。
「お…のれ!」
殴ろうとした手は容易く掴み取られ、無理矢理開かされた掌に生暖かい物が触れた。そのまま湿った音をさせて指の股を執拗に弄ぶ。
「やめろ…!」
羞恥に震えた声に、相手が笑った。否、顔は見えない。身体の自由を奪う、圧し掛かる陰だけが在る。明確な目的を持って軍八郎の肌の上で蠢いている。
狐狸妖怪の類なのか、蚊帳越しに見る物の様に曖昧糢糊とした陰。
それに犯されようとしている己に愕然とした。
―――此の侭生き恥を晒すぐらいなら
いっそ、と覚悟を決めた。その時。
りん。
清んだ音と共に一陣の風。蚊帳が靡き、揺れ翻る。
何時の間にか陰は消えていた。
「いったい…」
自由になった身を床の上に起こし、軍八郎は深い息を吐く。
再び気配を感じ、微かに身が竦む。それでも其方を見ると、揺れる蚊帳の向こうに白い影が在った。
「ご無事で…御座いやすかィ?」
「御行殿」
ああ…と、安堵の息を吐く。
「先日来からァ、何やらこの辺りに陰の気が凝っておりやした。よもやと思い、こうして参上してめぇりやしたが…軍八郎様」
お怪我は?と蚊帳を潜り傍らに立つと、気遣わしげに軍八郎の身体をしげしげと見回した。
「うむ。大事無い。御行殿のお陰で助かった」
視線に気付き、軍八郎は今更ながら肌蹴られた夜着の襟を慌てて直す。
それを見る矮躯の御行の口の端には、笑みが浮かんでいた。
霧のような雨が舞う夜半の路を、又市は歩いていた。八王子からの帰りだ。
その口の端には、相変わらず若気た笑みが浮かんでいた。
「随分とォ、ご執心じゃねぇか?」
先生の兄上に、と大柄な影が揶揄うように言う。
「けっ!」
大きなお世話だと鼻で哂う又市に、長耳は更に続ける。
「弥勒三千小股潜りがァ、邪気祓いたァまた、随分と殊勝なこった」
又市は応えず、代わりに手にした錫杖がしゃらんと鳴った。
「あんなちゃちな仕掛けまでしてェ、いったい何ィ考えてやがる?又の字よゥ」
「なァに。ちょいとお近づきになるためのォ、演出てェやつよ」
「ははァ」
長耳が苦笑する。雨の山道でもやったヤツか…
「蚊帳の中にはァ、そうそう入れ無ェからなァ」
あのお方ァ簡単にゃあ騙られちゃァくれねぇから、いろいろ手管が必要なのよォ、と嘯いた。
「でェ?またァ俺達ゃァ蚊帳の外かぃ?」
再び揶揄う様に言う長耳に、又市は人の悪い笑みを返す。
「馬に蹴られてぇンならァ、入ってきても構わないぜィ」
ふわりと雨の帳が揺れた。
〜了〜
「蚊帳」の中は雷も魔物も入れない密室と信じられていたらしい
カスタマイズ版又市第一弾(笑)
「人の恋路を邪魔するヤツは 馬に蹴られて死んじまえ」
05,07,07
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